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○○区にある○○治療のクリニック  ○○駅から徒歩3分  ホームタウンクリニック
クリニック名称
○○式治療
ホームタウンクリニック
○○区 ○○町 1-2-3
電話 012-345-6789
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電話:012-345-6789

までお気軽にご連絡ください。
治療の流れ
当クリニックでは、お客さまの体調に合わせ、治療方針を検討させていただいております。初診のお客様は、予診票にご記入いただき、治療方針についてのインタビューを行います。

(1)予診票記入とインタビュー(初診のお客様のみ)

イラストorスナップ写真 「○○をするときに、○○が痛い」等具体的なお客様の状況を予診票にご記入ください。インタビューでは予診票の内容をもとに、お客様のご要望をお聞きして、治療方針を決めてゆきます。もし、、「○○のようなスポーツをしても問題ないか」等のお悩みがございましたら、ご相談ください。

(2)診察と治療方針の決定

イラストorスナップ写真 次に体の状況をチェックしてゆきます。

(3)施術

イラストorスナップ写真 ○○式の特徴である○○治療を実施します。

(4)次回のご予約の確定

イラストorスナップ写真 次回のご予約をお受けします。

次のご予約が確定できないお客様やしばらく通院ができなかったお客様は、お電話かこのサイトのご予約フォームからご予約できます。

 営業日のご案内
 ご予約フォーム


http://wizardyuuyuu.shikisokuzekuu.net/hard_disk/establish.htm
http://wizardyuuyuu.shikisokuzekuu.net/hard_disk/establish.htm

ホームページ  メンテナンス > 初心者向ハードディスク保守管理増設のコツ > (83) 『初心者向ハードディスク接続のコツと初期化』

 『Internet Explorer』でこのページ内を検索するにはキー[Ctrl]を押したままで[F]を押します。下線部は関連する解説文等にリンクしています。リンク先から直前の文書へ戻るには[戻る]ボタンもしくはキー[Alt]を押したままで[←]を押します。このページの内容が理解できにくい場合は先ずWindowsパソコンの基本から学習して下さい。辞典はここIT用語はここサイト内検索はここをクリックして下さい。

更新日付 : 2011年03月04日

初心者向ハードディスク接続のコツと初期化

by ゆうゆう 

 このページはハードディスク(ハードディスクドライブ・HDD・Hard Disk Drive・Hard disc)の接続(増設・増加・取り替え・付け替え・取り付け)方法(手法)のコツと、各Windows(ウインドウズ)のバージョン(Windows95・Windows98・Windows98SE・WindowsMe・WindowsNT・Windows2000・WindowsXP・Windows2003・WindowsVista・Windows2008・Windows7)毎に異なる初期化の方法(手法)についてWindowsの超初心者やパソコンの苦手な年輩者にも解り易いWeb(ウェブ)ページの紹介と解説です。

 パソコンには複数のハードディスクを接続(増設)することが出来ます。メーカー製のパソコンでは安価にするために電源容量の少ないものが使用さている場合もあリます。複数の内蔵型ハードディスクを増設(搭載)する時電気的な容量も確かめて下さい。ハードディスク取り付けネジは、米国規格のインチネジです。国際標準のミリネジ(ISOのメートルねじ)とは違います。大きさが同じように見えてもネジ山の数(ピッチ)が異なり、無理にねじ込むと折損して取れなくなる場合が有りますので注意して下さい。このインチネジはパソコンショップで購入できます。
 『「ねじのデータ集・ねじ規格・サイズ選定表」ねじNo1.com/丸栄産業』:
 http://www.neji-no1.com/contents/07/file/index8.html 

 『初心者向ハードディスク空き容量を増やすコツ』については下記を参照下さい。
 capacity.htm 

 『Windowsの再インストールとクリーンインストール』は、下記を参照ください。
 ../bootdisc/windows.htm

 

ブートデバイスの接続とBIOSの設定

 ファースト ブート デバイス(ファーストブートドライブ) の設定や起動デバイス(ドライブ)の順位は、デバイス(ドライブ)の接続方法とBIOSの設定で決まります。 セットアップ ブート ディスク・bootable disk・ブートディスク・ブートFD・起動用フロッピーディスク・ブータブルCD/DVD・ブートデバイス・ハードディスクも含まれる起動ディスクが正常に機能していないとBIOSの設定画面を表示できません。起動ディスクの総合的な解説は下記を参照下さい。
 『オールマイティー起動ディスク最速マスターガイド』:
 ../bootdisc/bootdisc.htm 

【ハードディスクを増設後Windowsが起動しない】

 正常に動作しているパソコンにハードディスクを増設した場合や、Windowsをインストール後にハードディスクを増設してWindowsが起動しなくなった場合はこのページの解説を読んで“ハードディスクの接続手法”を学習後、“BIOSの設定”を確かめてブートデバイスの起動順位を正しく設定して下さい。

【増設したハードディスクを認識しない】

  マザーボードによっては指定された接続方法を守らないと、接続したHDD(ハードディスク)を認識しない場合があります。 BIOSが増設したHDD(ハードディスク)を認識できない(認識されない)場合はこのページの解説を読んだ後で、パソコンの取扱説明書もしくは、マザーボードの取扱説明書を確かめて、インターフェイスボードを追加したり、ドライバーソフトをインストールするなど指定された接続方法により正しく接続して、ブートデバイスの順位を正しく設定してください。

 ハーディスクから起動できなくなっている場合は起動用フロッピーディスクもしくはブータブルCD/DVD等を挿入していないとBIOSの画面を表示して設定を変更することは出来ません。

 

インターフェイス

 パソコンには、ノートパソコン(note PC)キューブパソコン(CUBE PC)デスクトップパソコン・タワーパソコン(フルタワー・ミドルタワーマイクロタワースリムタワー)など多くの形式があリ、搭載されているマザーボードも異なり、ハードディスクを接続するインターフェイスも異なり、接続できるハードディスクが限定される場合もあります。

 コンピュータに搭載されているドライブの種類を確認するには
Ultra ATA 33・66・100・133,第1世代(SATA I)バーストデータ転送速度 150MB/秒(1.5Gbit/秒),第2世代(SATA II)バーストデータ転送速度 300MB/秒(3.0Gbit/秒),シリアルATA Revision 3.06.0Gbps)・SCSISAS(Serial Attached SCSI) 
http://www.seagate.com/ww/v/index.jsp?locale=ja-JP&name=How_can_I_find_out_the_drive_type_on_my_computer&vgnextoid=a62bcac4bdfce010VgnVCM100000dd04090aRCRD 

インターフェイス(パラレル・シリアル・ATA・SCSI・SAS) :
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=%e3%83%91%e3%83%a9%e3%83%ac%e3%83%ab+%e3%82%b7%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%ab+ATA+SCASI+SAS+

ノートパソコンやスリムタワーなど追加のハードディスクを内蔵できない場合には、外付けハードディスクを使用しますが、USB2.0・USB3.0IEEE1394eSATASCSISASLAN などの接続方法があリます。

 

IDEインターフェイスとボード(Interface Card・インターフェイス カード・拡張ボード)

 ICH7R チップセット搭載マザーボードでは、IDEを1チャンネルしかサポートしないためSecondary(セカンダリ)はないなどの例外もあるが、内臓IDE(ATA・ATAPI・アタ・アタピー・パラレルATA)ハードディスクやCD/DVDドライブの接続(増設・追加)には『プライマリ(Primary)・セカンダリ(Secondary)』『マスタ(Master)・スレーブ(Slave)』の知識が必要です。古い形式でIDEインターフェイスだけのマザーボードを使用する場合では、OSをインストールするHDDはプライマリのマスタに、CD・DVDドライブやマルチドライブはセカンダリのマスタに接続します。残りに増設ハードディスク等を接続します。例外もあリますが、これを守らないとOSが起動しない、CD-Rにアクセスできない、マルチドライブが起動しない、ライティングソフトが使えない等、正常に動作しない場合が有ります。正常に動作しない場合は、パソコンや外付けケースの取扱説明書もしくはドライブに張り付けられたシールを確かめてジャンパースイッチ(ジャンパーピン)を正しく設定して下さい。 メーカー製のパソコンではジャンパースイッチ(ジャンパーピン)をケーブルセレクト(C/S・CS・CSEL・Cable Select)に設定している場合も有りますが、ドライブを増設するとケーブルセレクト(CS)では正しく動作しなくなる場合が有るので、マスター(MS)もしくはスレーブ(SL)に設定を変更して下さい。 IDEケーブル上のハードディスクの取り付け位置は80芯40ピン型ではマザーボード上に接続した反対側のケーブル端の端子がマスター、ケーブル中央にあるコネクタがスレーブになる。40芯40ピン型ではこれとは逆に認識されるので注意が必要です。 

 [ マザーボードのIDEインターフェイスへハードディスクの接続例 ]

 

 シリアル ATA(Serial ATA・S-ATA・SATA)にはマスター/スレーブの関係はありません。ジャンパースイッチ(ジャンパーピン)は取り扱い説明書を確かめないで工場出荷時点の設定を変更しないで下さい。(「SATA」で「SATA2」ハードディスクを使用する場合、各ハードディスクメーカーによって「150MB/s」に設定して出荷していたり、ジャンパ・コネクタの位置を変えて、「300MB/s」→「150MB/s」に変更するものや、フローッピーディスクやCD によるメーカー専用のツールを使って、変更をしなくてはならないものがあります。 購入されたハードディスクのサービスマニュアルや使用説明書をインターネットなどで確かめて設定してください。)  S-ATAがオンボードのものもありますが、SCSI・RAID・S-ATA・ATA133等のインターフェイスボード(interface board・インターフェイスカード・拡張ボード・拡張カード)はBIOSからは全て同じに扱われます。PCIバスに接続したボードの起動は1→5の順になり、1はAGPIRQを共有し、5本以上PCIスロットがある場合は5本目より下のスロットは他のPCIスロットとIRQを共有しますので 2〜4を使用し起動ディスクの有るボードは上側に差します。BIOSによっては起動デバイスの順位設定の他に、起動ハードディスクを選べるものもあります。 インターフェイスボードを使用する場合はこれらインターフェイスからブートするようにBIOSで設定できます。SCSIカードのIDは7番となります。従ってSCSIのハードディスク・CD/DVDドライブのIDは7番以外に設定してください。OSをインストール後にデバイスドライバーをインストールするBIOSを搭載していないインターフェイスカードもあり、これはブートデバイス(Windowsをインストールするハードディスク)としては使用できません。
 インターフェースボード(PCIバス用)の取り付け方・取り外し方:
 http://buffalo.jp/qa/if/make/if-05.html

【DMAの設定】

 ハードディスクを増設した場合は、DMA(Direct Memory Access)の設定状況を確かめて下さい。DMAに対応した内蔵ハードディスクを使っていても、そのままでは機能が活かされない場合があります。下記の設定でパソコンやソフトの起動が少し速くなります。
 Windows9x・Meでは、画面左上の[マイコンピュータ]を右クリックして表示されるポップアップメニューの[プロパティ]を選ぶ。[デバイスマネージャ]の画面にして、[ディスクドライブ]の前の[+]を押す。その中の[GENERIC IDE DISK]で始まる項目を選んで[プロパティ]ボタンを押す。新しく開いた画面で[設定]を選んで、[DMA]の項目にチェックマークを付け[OK]で閉じる。次に起動したときからDMAが有効になって、ハードディスクからデータを読み出す速度が速くなる。
 ハードディスクのDMA機能を有効にするには
 http://home.att.ne.jp/red/OSAKOH/DMASET.html 

 CD・DVD・HDD『DMA転送の設定方法』:
 http://www.zqwoo.jp/bfqa/show_c/BUF1637

 Windows2000では、デバイスマネージャから、[IDE ATA/ATAPI コントローラ]を開き、[プライマリ IDE チャネル][セカンダリ IDE チャネル]両方に含まれるディスクについて、[DMAを有効にする(可能な場合)]を選択する。この方法は Windows2000 Service Pack 2 以降でのみ有効。SP2 適用以前は UDMA 未対応。SP2を導入すると、自動的に UDMA に切り替わる場合もある。

  Windows 2000・WindowsXPの場合は、[システムのプロパティ]の[ハードウェア]面で[デバイスマネージャ]を開き、[IDE ATA/ATAPI コントローラ]の中の[セカンダリIDEチャネル]か[プライマリIDEチャネル]を開く。すると[詳細設定]画面で、デバイス(機器)ごとに転送モードを『 DMA』 に指定できます。
 Windows XP における DMA と PIO の設定の場所
 http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=kb%3Bja%3B310751 

 Windows Vistaの場合は、 ボタン[スタート]→[コンピュータ]を「右クリック」→[管理]→ 「続行するにはあなたの許可が必要です。」と表示→[続行]→[デバイスマネージャ]
[IDE ATA/ATAPIコントローラ]のツリーにある該当製品のATA Channelをダブルクリック→タブ[詳細設定]→設定するドライブをクリックし、[DMAを有効にする]にチェックマークを付け、[OK]をクリック。

IDE転送モード PIO DMA トラブル:
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=IDE%E8%BB%A2%E9%80%81%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89+PIO+DMA+%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq 

 

【フロッピーディスクやIDEハードディスクの接続とジャンパーピンの設定】

 旧式のフロピーディスクやハードディスクを接続するケーブルには中ほどにもコネクターが付いており、2台の機器を接続できるものがあリます。 フロッピーディスクのケーブルやIDEケーブルは真ん中のコネクタとそれに近いほうのコネクタがドライブ接続用で、遠い方のコネクタがマザーボード接続用で 1台だけハードディスクを接続する場合は(例外もあるが)先端に接続します。 長いことを理由に中央部にドライブを接続したり、余った部分を切断すると正常に機能しません。

 IDEハードディスクの設定にはマスター(MS)とスレーブ(SL)及びケーブルセレクト(CS)などもありますが、誤認識される場合が有るのでケーブルセレクト(CS)という設定は使わないで下さい。マスタとスレーブの設定は、ハードディスクのジャンパーピンで行います。通常、出荷時点のハードディスクはマスタに設定されているため、増設用ハードディスクはマスタからスレーブへジャンパ設定を変更します。ジャンパ・ピンの設定方法はハードディスクによって異なるが、ハードディスク本体のラベルに設定方法が記載されています。外付けケースに入れるハードディスクのジャンパーピン設定はマスタで使用するのが一般的ですが外付けケースの取扱説明書とハードディスクの設定を確かめて使用して下さい。

 マザーボードとケーブル、ケーブルとハードディスク(マスタ・スレーブ)の接続方法、ジャンパーピンの設定方法等について画像を使用して詳細に解説されたWebページは下記などを参照下さい。 

 失敗しないIDEハードディスクの増設方法(@IT):
 http://www.atmarkit.co.jp/fsys/pcmainterepair/009hddaddin/hdd_addin01.html 

 『初心者にやさしいハードディスク交換、取付け法』
 http://www.leoplanet.co.jp/install-hdd.htm 

 配線ケーブルの接続:
 http://asugi23.web.infoseek.co.jp/diyf/diy503.htm 

Seagate および Maxtor の ATA ハードディスク・ドライブのジャンパ設定について
http://seagate.custkb.com/seagate/crm/selfservice/search.jsp?DocId=196299&NewLang=ja 

 ケーブル&コネクタ図鑑(@IT):
 写真で理解するPCの各種ケーブル&コネクタ
 http://www.atmarkit.co.jp/fsys/cableconnect/indexpage/index.html 

 ハードディスク コネクタ 種類:
 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF+%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF+%E7%A8%AE%E9%A1%9E&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr 

 増設ハードディスクの選び方と接続方法は下記などを参照下さい。
 今時のハードディスクの選び方:
 http://mbsupport.dip.jp/bk/2005/sub/103.htm 

 交換・増設ハードディスク比較リンク集: 
 http://www2.olisys55.com/harddiskpr.html 

内蔵ハードディスク 接続情報(Logitec) 
http://www.logitec.co.jp/connect/connect.html 
製品別 接続情報
http://www.logitec.co.jp/connect/connect3.html 
ノートパソコン用内蔵ハードディスク交換手順
http://www.logitec.co.jp/connect/note_hd.html 
下記メーカーの機種毎に、初心者にも解りやすく画像による交換手順が解説されています。
各社パソコンメーカー(NECIBMFUJITSUTOSHIBASHARPSONYSOTEC

 

S-ATA/SASインターフェイスと拡張ボード(Interface Card・インターフェイス カード)

 シリアル ATA(Serial ATA・S-ATA・SATA) インターフェース(シリアルATAハードディスクの場合)では、各ディスク ドライブにシリアル ATA ホスト アダプタ カード、またはマザーボード上のシリアル ATA ポートに直接ケーブルでハードディスクを接続します。パラレル ATA とは異なり、シリアル ATA インターフェースを使うドライブ間にマスター・スレーブ関係はありません。従ってジャンパーピン(マスター・スレーブ)の設定は不要です。但し、Serial ATA II・III など次世代対応のハードディスクで、認識しない場合にはインターフェイスに合わせてハードディスクのジャンパースイッチ(S-ATA ⇔ S-ATA2・3)の設定が必要になる場合もあリます。体感スピードは変わらないが、キャッシュがヒットしたときには、S-ATA → S-ATA2(3.0Gbps)にすると速くなる可能性はあるようです。 RAID・SCSI・ATAインターフェイスボードを使用した場合や初期のオンボードSATAのマザーボードではドライバーソフトをインストールしないとドライブを正しく認識できない場合が有ります。また、BIOSの設定によっては思惑通りドライブを認識できない場合もあリます。日進月歩で新技術が導入されており、マザーボードによって異なるのでマザーボードの取扱説明書もしくはパソコンメーカーサイトの解説に従って下さい。シリアル ATA インターフェース ドライバのインストール方法とトラブルシューティング・ケーブルの接続とドライブの取り付け方法・BIOS の設定などの解説があるWebページの事例を下記に紹介していますので参考にして下さい。

Phoenix - Award BIOS CMOS Setup Utility
Advanced BIOS Features 『Hard Disk Boot Priority』
接続されたハードディスクの起動優先順位を設定します。"Boot Add-in Cards"を優先にした場合、RAIDや外部IDEコントローラ(ATAカードなど)に接続したハードディスクが優先されます。
http://aopen.jp/tech/faq/mb/bios/intelich5/abf.html#05 

Seagate > サポート > インストール支援 > 取り付け指示 > 内蔵ドライブ インターフェイス > SATA > シリアル ATA (SATA) ハード ドライブのインストール方法とトラブルシューティング
http://www.seagate.com/ww/v/index.jsp?locale=ja-JP&name=install-troubleshoot-sata-non-mac&vgnextoid=8f57ba87945ce010VgnVCM100000dd04090aRCRD 

【AHCI対応SATAドライバを入れてWindowsXPをNCQやホットスワップ対応にする。】
AHCI (Advanced Host Controller Interface)対応ドライバを使うとP965+ICH8RのオンボードSATAポートでもホットスワップが可能になります!WindowsVistaだと標準でAHCI対応でNCQもホットプラグもいきなり可能だそうです。
 http://digitalkaden.blog17.fc2.com/blog-entry-107.html 

AHCI・S-ATAなどBIOSが思惑通り認識してくれない場合の解説事例は下記なども参考にして下さい。
『BIOS操作画面の起動とブートデバイスの設定』 
../bootdisc/bios.htm

 

 WindowsNT4.0では、お手持ちのシステムにSCSI-I/Fを増設した時、 自動的に認識されない場合があります。 コントロールパネルのSCSIアダプタを選択し、ドライバの追加を選択してSCSIカードを認識させて下さい。

 WindowsNT4.0の場合、IDEインターフェースの設定を変更しないとATAPI仕様のドライブが認識されない場合があります。 コントロールパネルのSCSIのアイコンをクリックし、ATAPIのドライバ(OS標準)を組み込んでください。

 下記はこんなものが有るよと言っているだけで、これが良いとは云っていません。CMでもなく、当サイトとは何の関係も有りません。ご自分で適当な製品をパソコンショップでお選び下さい。

 大容量ハードディスクを使用可能にするシリアルATAインターフェイスボードWindows98SE・WindowsMe・Windows2000・WindowsXP対応を紹介しておきます。
 http://www.adaptec.co.jp/product/serial_ata_raid/1205sa/index.html 

 大容量ハードディスクを使用可能にするATA133インターフェイスカード(SUGOI) 対応OS:Windows98・98SE・ME・2000・XP・NT4.0、起動BIOS ROMを搭載しているので、接続したHDDからWindowsなどのOSを起動することができます。
 http://www.system-talks.co.jp/product/ua-hd133c.htm 

 PCIバス対応 IEEE1394b(FireWire 800・ファイアワイヤー800)&IEEE1394インターフェースボード、対応OS:WindowsXP・Me・2000・98SE・MacOS9.2.2以降・MacOS X・10.0.4以降
 http://buffalo.melcoinc.co.jp/products/catalog/item/i/ifc-pci4ib/index.html 

 RAID構成のパソコン(HDD)にWindowsを再インストールする際の注意点とRAIDの種類(RAIDレベル)、及びハードディスクの接続方法(取り付け方法)等に付いて書かれたWebページは下記などを参照下さい。
 http://home.impress.co.jp/magazine/dosvpr/q-a/0408/qa0408_1.htm 

 内蔵・外付けを問わず、自在なRAID構成を実現するRAID対応シリアルATAインターフェイスボード『スゴイレイドSATA』
 http://www.system-talks.co.jp/product/sata/rd1504c/sata-rd1504c_r.htm 

日立HGST製SATA HDDを認識出来ない問題の解決方法:
 日立HGST製HDD側のSATA転送レート設定がデフォルトで3.0Gb/secになっており、ジャンパスイッチ等も一切無い為、1.5Gb/secにしか対応していない一部のマザーボードやカード(VIAがSATAの正式な規格に準拠してない為VIA製チップ搭載)で認識できないらしい。 
http://itpc.blog87.fc2.com/blog-entry-6.html 
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=%E6%97%A5%E7%AB%8BHGST%E8%A3%BDSATA+HDD%E3%82%92%E8%AA%8D%E8%AD%98%E5%87%BA%E6%9D%A5%E3%81%AA%E3%81%84%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E6%96%B9%E6%B3%95&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq 

S-ATA ハードディスク 取付け: 
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=S-ATA+%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF+%E5%8F%96%E4%BB%98%E3%81%91&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr 

S-ATA ハードディスク 交換: 
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=S-ATA+%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF+%E4%BA%A4%E6%8F%9B&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr

SCSIカード・SCSIボードとSCSI HDD(ハードディスク)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=%ef%bc%b3%ef%bc%a3%ef%bc%b3%ef%bc%a9%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%89%e3%83%bb%ef%bc%b3%ef%bc%a3%ef%bc%b3%ef%bc%a9%e3%83%9c%e3%83%bc%e3%83%89%e3%81%a8SCSI+HDD%28%e3%83%8f%e3%83%bc%e3%83%89%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%b9%e3%82%af%29

SAS(Serial Attached SCSI)ホスト・アダプタ ドライバー インストール:
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4PCTA_jaJP282JP282&q=SAS%e3%83%9b%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%80%e3%83%97%e3%82%bf+%e3%83%89%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%90%e3%83%bc+%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%bc%e3%83%ab 

配線ケーブルの接続 − 自作パソコン組立講座:
最近のPCケースや電源ユニットであれば、SATA信号ケーブルSATA電源ケーブルのコネクタが付いていますが、無ければSATA電源ケーブルや電源コネクタ用の分岐ケーブルが別途必要な場合があリます。
http://asugi23.web.infoseek.co.jp/diyf/diy503.htm 

 

外付けハードディスク

 下記はこんなものが有るよと言っているだけで、これが良いとは云っていません。ご自分で適当な製品をパソコンショップでお選び下さい。これらを使用することで簡単にファイルのバックアップやWindowsの起動できないパソコンからデータを救出できる場合が有ります。

 USB接続のハードディスクなど外付けハードディスクで領域確保とフォーマットの手順は、メーカーと機種によって異なります。お使いの外付けハードディスクに添付された取り扱い説明又はメーカーサイトを参照下さい。 WindowsフォーマットのUSBまたはFirewireのハードディスクをMacで使いたい。 MacフォーマットのUSBまたはFirewireのハードディスクをWindowsで使いたい。USBハードディスクの領域確保とフォーマット方法。などについて解説されたWebページの事例では下記を紹介しておきます。
 http://www.system-talks.co.jp/support/item/USB0004.htm 

 Windowsが起動してからUSB接続のハードディスクをパソコンに装着すると正常に認識しますが、 BIOSセットアップメニューの「USB Legacy Support」という項目を「Disabled」(無効)に設定して置かないと、USB接続のハードディスクを接続したままで電源を入れるとWindowsを起動出来ない場合が有ります。  USBキーボードなどUSB機器を使用する場合は、BIOSの設定でレガシイUSBを「Enabled」(有効)としないとWindowsをインストールする場合にBIOSがキーボードを認識出来ないので注意が必要です。BIOSの設定が変更できない場合、もしくは変更しても改善が見られない場合は、お使いのパソコンでは電源連動を使用する事が出来ません。
http://www.iodata.jp/support/qanda/answer/s13180.htm 

 外付けUSB HDDからWindowsの起動が可能
 http://plusd.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0507/05/news001.html 
 1台のPCで複数の異なる環境を使い分ける 
 USB外付けハードディスク対応の起動制御ユーティリティ 「BOOT革命/USB Ver.1」(アーク情報システム
 http://pcweb.mycom.co.jp/ad/2005/ark/kakumei15/ 
 BOOT革命/USB Ver.1.2 で、USB ハードディスクから起動できない場合の確認事項
 http://www1.ark-info-sys.co.jp/support/bootusb/v1/use/usbusefaq.htm 

 内蔵用IDE HDD を外付け IEEE1394b(FireWire 800・ファイアワイヤー800)に変身、カートリッジ方式トレイ採用ハードディスクケース
 http://www.ratocsystems.com/products/subpage/fr8ifk1s.html 

 外付けSATAハードディスクをダイレクトに接続します。
変換チップを使用していないので、ロスのないハイスピードなデータ転送と、低CPU負荷を実現し、ダイレクト接続により、SATA外付けハードディスクからのブートを可能にいたします。
 http://www.system-talks.co.jp/product/sata-hd35dc.htm 

 USBハードディスクにもう1つのWindows環境を構築できる「BOOT革命/USB」
BOOT革命/USBは、内蔵ハードディスクのシステムドライブ(通常はCドライブ)をすべて外付けのUSBハードディスクにコピーして、そこからパソコンを起動できる 
 http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20050721/112874/ 

「eSATA」
 eSATAとは、パソコンと外付けハードディスク(HDD)をつなぐ新しいインタフェースです。最新のHDDは、その内部で90M〜130MB/秒でデータを読み出せるので、USB2.0データ転送60MB/秒のボトルネックが、eSATA(external Serial ATA)なら HDDの性能を生かした転送が可能になります。eSATA対応の光学ドライブを開発中のメーカーもあり、今後は外付け機器をeSATAでつなぐケースが増えそうです。
 http://arena.nikkeibp.co.jp/qa/20060123/115115/ 

起動ドライブとしても使える、eSATA&USB 2.0/1.1対応 外付型ハードディスク(アイ・オー・データ機器)
http://www.iodata.jp/prod/storage/hdd/2006/rhd-ux/index.htm 

eSATA対応外付けハードディスク SATA2パソコンとの接続用ケーブル
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1I7ADBR_ja&q=eSATA%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E5%A4%96%E4%BB%98%E3%81%91%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF+SATA2%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%8E%A5%E7%B6%9A%E7%94%A8%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

【リムーバブル トレイ】(リムーバブルトレー)

 ハードディスクを簡単に接続(取り外し・切り替え・入替・取り替え)の出来るケースが有ります。下記はこんなものが有るよと言っているだけで、これが良いとは云っていません。ご自分で適当な製品を製品をパソコンショップでお選び下さい。

 内蔵・外付け、リムーバブルケース。
 http://www.ratocsystems.com/products/dock.html 

2.5”(ノートPC用)HDDはい〜るKIT USB エントリー (株式会社ノバック
Windowsが起動しなくなったパソコンからデータを救出するのに便利です。
USBバスパワー駆動対応、安心の補助電源端子付きUSBケーブル付属 
http://www.novac.co.jp/products/hardware/nv-hd/nv-hd280u/index.html 
3.5”(デスクトップPC用)HDDはい〜るKIT USB エントリー 
http://www.novac.co.jp/products/hardware/nv-hd/nv-hd380u/index.html 

カートリッジなしでHDD交換可能なSATAリムーバブルケース発売
http://www.watch.impress.co.jp/akiba/hotline/20060415/etc_naked.html 

内蔵用IDEハードディスクを高速大容量リムーバブルHDに
http://www.ratocsystems.com/products/subpage/satamdk1.html 

 本体内部にハードウェアRAIDコントローラーを搭載(RAIDカード不要)したリムーバブルトレイ式のRAIDユニット:
 リムーバブルトレイケースにHDDを2台収納し搭載します。 ホットスワッピング(ホットスワップ・ホットプラグ)に対応し、保守時にシステムを起動したままHDDの換装(入替・取り替え・切り替え)が可能です。 又、自動再構築機能(Auto Rebuilding)によって、新規HDDを差し込むだけで Rebuild を開始します。
 http://www.kingtech.co.jp/site/products/raidbox/araids1600.html  

【各種変換パーツ・変換ケーブル】

 各種変換パーツ・変換ケーブル等の有るWebページ
 2.5インチHDD ⇒3.5インチ変換アダプタ・シリアルATA ⇒IDE(ATA)変換アダプタ・IDE(ATA)⇒USB2.0変換ケーブル・ATAPIデバイス外付けキット。
 http://www.leoplanet.co.jp/hit/convert.htm 

 各種ケーブル価格表
 http://www.parts-do.co.jp/data/cable.html 

 上記の各種変換パーツ・変換ケーブルは、Windowsが起動できなくなったパソコンに新しくハードディスクを接続して今まで使用していたWindowsの起動できないハードディスクからデータを取り出す場合や、正常に動作しているパソコンにWindowsの起動できないハードディスクを接続してデータを取り出す場合に重宝します。やり方が解らない方は下記を参照して学習下さい。
 ../bootdisc/dos.htm 

【ハードディスクをLAN上に設置】

 トップパソコン周辺機器ドライブ・ハードディスク >ネットワーク対応ハードディスク
 http://www.yodobashi.com/enjoy/more/productslist/cat_38974453_64/47267989.html 

 USBハードディスクをネットワーク対応に変換「USL-5P」
 http://arena.nikkeibp.co.jp/rev/parts/20050201/110875/ 

 ネットワーク上で簡単にデータ共有ができるRAID1対応ハードディスクケース 
 http://www.plathome.co.jp/detail.html?scd=11811126 

 

ハードディスクドライブ(HDD)の初期化

【ハードディスクの容量制限】

 メーカー製のパソコンや外付けハードディスクなどの初期化は一部例外も有るので、先にメーカーの取扱説明書を参照ください。 通常クリーンインストールする場合や初めてOS(Windows)をインストールする場合は『起動用のフロッピーディスク』もしくは『Windowsインストール用のブータブルCD/DVD』内にある初期化ツールを使用します。新しいハードディスクを使用するにはパーティションスタイルとファイルシステム及びハードディスクの容量制限について知っておく必要があリます。OSのバージョン毎にこれらは異なりますのでハードディスクを取り替えもしくは増設する場合は注意して下さい。詳細は下記を参照下さい。

 『Microsoftの準備した各Windows起動ディスクの作成と対比』
 ../bootdisc/msboot.htm 

【ハードディスクの初期化】

 新しくハードディスクを購入した(ハードディスクを増設する)場合は、一つのハードディスクを一つのドライブとする場合でも領域確保(パーティショニング)を実施して、次にフォーマット(イニシャライズ・初期化)しないと使用できません。詳細は下記を参照下さい。

 『初心者向ハードディスクの初期化マニアル』
 ../bootdisc/initialize.htm 

 Windows Vista で完全なフォーマットを実行した後、ハード ディスクが RAW ボリューム(フォーマットされていない)として表示される。RAW ボリュームとは、フォーマットされたことがなく、ファイル システムが含まれていないボリュームです。この問題を回避するには、ハード ディスクのフォーマット時に [デバイスの規定値を復元する] をクリックします。
 http://support.microsoft.com/kb/929662/ja 

 

参考資料

【ハードディスク価格】

価格.COM『売れ筋ランキング・注目ランキング・満足度ランキング』 
価格変動履歴(登録価格の最安値および平均価格の推移)口コミ情報など

価格.COM > パソコン > ハードディスク・HDD(3.5インチ):
http://kakaku.com/pc/hdd-35inch/ 

価格.COM > パソコン > ハードディスク・HDD(2.5インチ):
http://kakaku.com/pc/hdd-25inch/ 

価格.COM > パソコン > ハードディスク ケース:
http://kakaku.com/pc/hdd-case/ 

価格.COM > パソコン > リムーバブルケース:
http://kakaku.com/pc/removable-case/ 

ノートン・パーティションマジック 8.0
ノートン・パーティションマジック 8.0は、Windows上でマウスを操作するだけで、パーティションの作成/フォーマット/サイズ変更/移動/コピー/変換/分割/結合/削除/削除の取消しを素早く簡単に行える
http://www.netjapan.co.jp/e/product/storage/PM/ 

パーティションコマンダー8は、データを削除することなくパーティションの作成やサイズ変更を行ったり、1台のパソコンにWindows XPやWindows Me/2000などのOSをインストールし、簡単に切り替えて使うことができるソフトウェアです。パーティションコマンダー8をインストールせずにCDから起動してパーティションを操作することもできます。
http://www.lifeboat.jp/products/pc8/pc8.html 

『 システムマネージャー4 Boot It(ブートイット) 』
最大255のOSをインストールできるパーティションソフトの最新版
http://www.junglejapan.com/release/2005/0614.html 

外付けHDDからのブートを可能にするWindows起動制御ユーティリティーアーク情報システム 
http://plusd.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0506/21/news051.html 

USBハードディスクにもう1つのWindows環境を構築できる「BOOT革命/USB」(デジタルARENA)
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20050721/112874/ 

 137GB以上の大容量増設と高速転送を実現するUltra ATA/133インターフェースボード
 http://buffalo.melcoinc.co.jp/products/new/2001/056_1.html 

シリアルATAに対応したHDDを中心としたデバイスを最大2台まで接続可能、また48-bit LBAのサポートにより、容量が137GBを超えるドライブにも対応
Adaptec SATA connect 1205SA
http://www.adaptec.co.jp/product/serial_ata_raid/1205sa/index.html 

 

内臓:動物のからだの内部にある諸器官の総称。ハードディスクは動物の内臓では無いがパソコンでハードディスクは外付けより内蔵される場合が多い。←検索エンジン誤入力対策(内蔵⇔内臓)

 

 

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 質問と解答について

同前十一月廿八日の書翰
別紙愚説前書に対し烈公の説

別紙大隅より届の手控拝見仕候処兼て申候通南は琉国北は蝦夷を奪れ候得者本朝の大害に有之候故此間中夜中も寝不申或は仏人英人の心と成り又は琉人薩人の心となり過憂の余り様々に考申候処愚考左之通り御坐候一薩州より届の手控に池城親方を清国へ差渡為及歎
 訴候処広東逗留仏英官人方へ達に相成候処仏朗西官
 人には追て迎舩差渡可連帰旨返答有之英国官人より
 は未何分為决返答無之候得共(愚考同穴之者申合置難計)仏人無異
 儀連帰候はゝ英人も定て同用引払可申候付池城には
 順季不取後内に早々致帰帆其段届申出候はゝ中山王
 可致安心との事にて清国より返章等相渡候付当五月
 福州表致出帆同月下旬琉着云々右返章等写八通則入
 御覧申候就ては追々迎舩も渡来可仕哉究ては難申上
 候得共决て違言有之間敷云々
 斉昭愚考に池城親方を清国へ差渡し摸様探求は格別
 なれとも清国も去る寅年頃より外夷に恐縮し防禦相
 成兼終に仏英の〓225奸計和解したる程の拙王旦筋違の
 書翰取来たる共当には不相成其上仏人は迎舩差渡可申由英人は决たる答
 無之を仏人無異儀連帰たらは英人も定て同様引払可
 申と聞留も不致順季不取後内早々帰帆右
 の段届候はゝ中山王も安心可致と早速引返し候仕方
 中山王に安心可為致と存候段は尤の様に候得共わさ
 々々清国に行く程にてしかと聞留も無之帰候儀池城
 之愚眛且中山王発明の者に候はゝ立腹は致共安心は致
 間敷訳也如何となれは仏人迎舩を渡し可申と承る上
 は容易に打払候事抔は不相成又着岸の上には英人承
 知の答無之故不連帰候共英人を押へ候証拠無之第一
 清国王より云々書翰は有之共是は中人の姿にて「昨年
 七月二十日大隅よりの届にて見候得は此度は致帰帆
 申立候趣皇帝へ具に奏達には可及候得共(附札本文官
 人にて承知致候後来上達皇帝以上の事には無之此度
 は皇帝直の下知にて来候故云々抔書時は清国の書翰
 は反古也)大総兵心底不致落着候間国躰の様子見届候
 形行致奏聞候はゝ皇帝何分議定可有之然は皇命之旨
 為申諭今一け年程には可致来着云々」と
 申帰帆の事故我主君にも無之筋違の清国王如何様達
 し候共皇帝より云々被命候云々御申来候
 得は其方の皇命にそむきても清国王の達を用候様に
 とは被申間敷又清国王の達を不用節は清国より援兵
 を渡し仏英を防禦可致抔申勇威は毛頭有之間敷左候
 得は右書面を取来候儀何の用にも至不申のみならす
 仏英官へ申達候儀等強て申募候はゝ清国王は必す清
 国の為を存琉国へ仏英を指置交易致候様可申も何計
 へし井清国より右様の差図有之上は元より表向清国の属
 島なれは不用しては相成間敷用る時は仏英に不許て
 は不叶事也同大隅よりの届の手控に是迄は取合不申始終丁寧を尽
 し召置候に付追々本国舩渡来仕候ても格別差咎候廉
 迚も無御坐一礼厚申述無異儀致出帆候次第云々猶又
 残居候者共へ尽丁寧迎舩渡来候はゝ一涯礼譲厚会釈
 儀に折れ再ひ渡来無之様堅致約定候様にも可取計旨
 池城親方等其外帰帆の琉人共へ委細申付猶差渡置候
 役々の者共へも申付越候心得に御坐候云々との事に
 候得共此後の大総兵舩来着は薩人琉人共一同今より
 恐縮致届候所へ存外大総兵より厚賜物致是迄残置候
 者共の扱向宜敷を謝し偖又此上十人成百人成皇帝の
 命の由にて上陸逗留致させ候はゝ猶琉国は国法の義
 故云々申断可申候得共皇命の事故私に取扱兼候得は
 今一度帰帆の上奏達致し其上にて如何様共皇命次第
 にて扱可申故夫迄の処を逗留致させ候様抔と品々贈
 り丁寧を尽し頼候節は必皇命にそむき候とも国法故
 留置候儀不相成と薩人琉人共申事は相成間敷夫を厳
 にさからい申候はゝ事起り可申と薩州琉人義に折れ
 て仏英の申通りに可相成左候時は六く々に差置出帆
 其後三四年も過候て又々来り厚礼謝して多人数残置
 候様相成其内には土地迄も買求普請迄も先にて致居
 様可相成も難計(附札本文手を引不申節は戦争猛威を
 以厳重に扱程ならは以前の方仕方よし其上事起るに
 不拘扱ては是迄丁寧をつくしたるせん無之故是は届
 の文面に猛の事無之故かりは書たる者と思ゆれとも
 かくは扱兼へし)彼是致十年も十五年も過候得は自然
 彼か陥術中不戦して三け条の難題も夷狄の存候通り
 に相成候半仏英迚も元より命は惜き故可相成は一戦
 もなく一人も死すして口先にて望を叶度は指見候処
 琉人は勿論如女子なれは仏英には組し易く薩人も唐
 物再願相済候を志次第に存上は手をぬらさすして利
 益に眩候半かたゝゝ仏英
 の好む処へ陥り可申候〔附札本文唐物云々の儀は防禦
 の備手厚く致と申抔いう事とは不聞永代国益にせん
 という意なるへし是迄さへ内証交易の程難計処此度
 相すみの上は表向に相成必其中弊生すへし又必長崎
 の方へ響様之事可起も難計其節御達有之共彼是申出
 て止かたかるへし〕彼方義に折れ手を引候得は十分の
 儀其儀難整場に至候はゝ戦争猛威を示し候儀勿論の
 筋と評决仕云々残置候者共平穏罷在候段承届経日二
 人の者共行状或は申出候趣折節三け条難題申掛又自
 儘の儀共申募或は失礼の筋申掛琉人共怒立候はゝ夫
 を手蔓に致事を起すの巧現然の儀多々有之候付其邪
 智に乗し逆ひ申候得は奸計に陥申外無御坐候節何様
 の事申懸候ても一向相断専丁寧を為尽置折を見合国
 禁の儀共不差障様相断候処許容仕候儀も有之又申募
 の儀も有之何分琉球より事を起し申候謀計には相違
 無御坐候云々〔附札本文に有之許容する儀は何れにて
 もよき程の事は許容し彼か計策の為に不相成事は止
 ては不相成故申募りておどす事と見へたり
 琉球より事を起さする云々しきりに戦争を起す様に
 思へと書たれとも戦争計にはなし威を見せて琉球よ
 り和睦を起す様の仕かけ成へし先は不戦して屈せし
 むる仕方と思ふ也〕
 午七月二十日大隅よりの届の中に大総兵より琉球総
 理官へ致面会和平の事申談度申出趣有之云々又琉球
 も必仏国に親候様且仏国清国和好交易免許の文書を
 見せ商道の儀共委細申聞終には和好致交易度趣国頭
 按司へ申聞云々(外国人応接中総理大臣の名を用ふ平
 生は何の掌務もなし)又琉球は唐日本へも通商は事辨
 利能国柄と兼て承及此度暫逗留致見聞候処其通の事
 と被察其方より申聞候通には難心得候就ては仏国通
 商の事於許容は以来琉球国益にも相成候様可取計再
 往種々申懸云々」是等にても仏英共も命は惜き故可相
 成は不戦して望をとげ申度計策無相違又於琉人薩人
 も不戦して理解に及候処故是は迚も夷狄の計策に陥
 り可申候大隅よりの申出に琉人少々立腹候はゝ夫を
 手蔓に事を起し可申云々と有之処へは一つには尤に
 て此処へは心付候得共平穏にして不戦彼が術中に陥
 候処へは不心付利益に眩し唐物再願等有之は則平穏
 にて化せられ候術中へ陥候事也されは遅早はともあれ十に九分迄は琉球は仏
 英に化事無疑是は我か印をも押度程の事也譬へはら
 つこ島は元より日本の地なれ共騒動有によりは此方
 にて手を引候方との儀にて松前事一戦もせすして夷
 狄の島にはしたり况や琉球は元より清国の属島と唱
 候事故仏英に化し候はゝ薩州にて手を引き只仏英へ
 遣し候様可相成且内々は琉球人柔弱なれは本朝へは
 義理にて云々いへ共仏英に化しても戦争無之永世仏
 英の恵にて国益有之方を可好も難計又一度仏英に化
 したる上は高枕世界に出たる薩人以前手に附たる手
 際には安心難成也届書は寛猛の二字を以て能認たれ
 とも彼方義に折る様にせんと思ふ時は却て琉人薩人
 義に折れて仏英の陥術中方易く又仏英義に折れ手を
 引儀難整場に至候はゝ戦争猛威を示し候儀勿論の筋
 と評决云々届は有之共其場に至ては薩州の敗北は易
 かるへし如何となれは実に寛猛の所置可致了簡なら
 は
 日本永世之安危に拘る程の事なれは大隅守初め多人
 数琉球に渡海し可申に僅に二頭三頭一艘の夷舩中の
 人数よりも少く差遣置如何して猛威を示し候事可相
 成哉左候へは理解せんと思ふ時は先より理解せられ
 て琉人薩人義に折れ又猛威を示んと欲する場合に至
 りては彼より猛威を示されて琉人薩人恐縮する事見
 るか如し是は我十け年前より追々建白せる如く厳重
 打払ひ不寄付様子不相分故二頭三頭計の人数にても
 猛威を振ふに足へけれ共今と成ては琉国の地理人情
 見透したれは迚も六け布事と被察候又此上蝦夷地を
 も呑
 日本は次第々々に狭められ夷狄は年々歳々近
 寄様に成行事大息の至也夷狄にていふ三つ難題何れ
 か一つ叶ふ時は外二け条は自ら出来るなれは夢々暮
 々有断は相成兼候如何様存候ても遅早はともあれ最
 早琉国は六け布と被察候せめては此上蝦夷地如琉球
 不相成様不堪至願候依乍例無腹蔵認申候也
 弘化四年丁末十一月廿八日
 二白八月廿八日修理よりの届の中に国用金不引足
 故中国を親とし度佳頼島を母と頼み往古より今日
 を営み月日を送候得は此両国の大恩高き事は太山
 の如く深き事は千尋の海にも増れり此人情可察云
 云」と有之処其本は本朝並唐国を恐るゝより初りて
 の事なれは仏英等より厚恵有之時は両国を親母と
 し仏英等を君と為へきも難計又仏国等より我子島
 の琉国へ贈物有之大恩に成時は父母より謝礼は為
 共彼是は於理申難かるへし是に不限兎角夷狄と義
 理立為す時は終に彼か術中に陥は指見へたる儀は
 兼て愚説之通り也されは大隅守初一国の人々召連
 琉球国に渡海し居て此方より猛を好み勇威有て夷
 狄に何ぞ手落有之はよき幸一戦して猛威を示し度
 程の息組にて寛に扱時は夷狄も其色を見取彼より
 手を引様にも可相成故寛に扱事も易かるへし右の
 勇威を見て帰帆の上には重て渡来は見合へし夫共
 に強て打かゝらは勿論の儀大隅守初打死するかよ
 き也たとへ大隅一家を亡す共薩摩守に被
 命人は
 日本中に何程も可有之琉人さへ両国の大恩を不忘
 云々いう程の儀於大隅守日本の大恩を蒙事琉人の
 於日本如くには無之此処を能辨へ大隅一家を亡し
 て日本の武勇を示ん事を思ひ若大隅亡ひは最寄西
 国の大名何へんにても日本の穀を代々食し是迄命
 をつき且二百余年
 神祖の御大恩にて高枕の世に
 生出是迄何一つ命に拘る程の御奉公も無之候得者
 右之
 御大恩を報し畳の上にて不死事武門の本意
 と思ひ定て一同渡海して寛猛の扱せんに出来ぬと
 云事不可有又け程の忠節有時は於
 公辺其家を亡
 し給ふ事も有へからす然るに其心とては聊もなく
 彼か術中に陥り候事にも不心附表に穏便を唱へ剰
 国益抔思ひ唐物再願等に及ふはあさましき事也
 秀吉の朝鮮攻は無益なる事なりきか其節さへ大名
 数頭渡海したり况や今琉球は大隅守私領と唱る程
 にて自身不渡海僅に二頭計り指遣清国の返章等を
 当と思ふは不当なる事ならん歟右は
 御為厚存よ
 り過憂の余り貴兄の事故思ふ存分無遠慮書散申候
 其心にて一覧可給候也愚昧の罪難迯
________________________________________

編年目録へ
──────────────────────────────────────指揮権発動を書かざるの記  犬養 健
文藝春秋にみる昭和史 296p
(S35.5)
佐藤氏程度のまずさは時おり生れるはずのものなのである。そしてこれはひとり自民党ばかりではない。社会党における総評の関係も、民社党の西尾氏における社会各層の西尾ファンの関係も、いってみれば程度の差に過ぎない。
 ところがあの事件に関する限り、古今未曾有の奇怪事−−−すなわち二度とあってはならない奇怪事は、実は別の点にあったのである。それは他でもない。当時検察庁に対して大きい勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長たる佐薄薄佐氏を差しおいて庁内のある有力者を吉田首相の身内の一人に近づかせ、「自分の推薦する者を検事総長に任命すれば指揮権発動ぐらいのことは必ず断行させてみせる」と豪語して、ひそかに首相の周囲に指揮権発動の可能性なるものを入れ智恵する一方、検察庁内のある上級幹部にも働きかけてその秘密会議の席上、「断乎佐藤栄作を起訴すべし」という、まったく正反対の強硬論を吐かせたのである。そのねらうところはいうまでもなく指揮権発動の実現によって法務大臣、次官はもとよりのこと検事総長をはじめ検察庁の主な責任者を一人残らず引責辞職せしめ、代って彼の意中の男を新たに検事総長に据えると同時に、法務大臣の後任には首相の身内と最も親しいある衆議院議員を持って未ようという遠大な筋書で、すでに本人の内諾まで取りつけていたのである。
 しかしこの計画がどこからともなしに少しずつ瀬れて来た結果、私は法務次官にのみは真相を打ち明けたうえ、首相にまで辞意を申し出、緒方副総理に辞表を手渡した。というわけは、当時佐藤検事総長は法務省詰の新聞記者の連日連夜にわたる必死の監視の的になっていたし、それに、この記者連中は学者肌の佐藤総長の些細な言葉のニュアンスから何らかのヒントを引き出す急所を心得ていて、私なぞが記者会見の席上とぼけてみせると、「まあ、いいですよ。どうせ今夜はお役所の佐藤情報局長官に当ってみますから」なぞと、公然と言うようになっていた。こんな始末だから、私は検事総長にはちと相すまぬと思いながらも、問題の核心を総長に知らせる勇気が出なかったのである。その後総長の書かれた新聞記事なぞを読むと、今日でも総長の未だに知らぬ部分があるように思われる。
 こういう裏面の動きをまったく知らない吉田首相は私の辞任申し出に当惑して、一時は元司法大臣の小原直氏に後任の内交渉をしてみたが、誰しもこんな割のわるい役目を引き受ける者はない。そのうちに首相がひそかに検察庁のある上級幹部と面会したという噂が立って、国会でも野党がだいぶん喰い下がって私を追及した。ところが、偶然にも緒方副総理のロから私は首相官邸の裏門に停っていた自動車の正体をほぼつきとめた。もちろん、こういう出来事は検察庁法の固く禁じてあるところだ。かれこれしている間に日は切迫してくる。佐藤問題担当の検事は便所へ行く
@@@@@@@@@@菅直人首相が浜岡原発の全原子炉停止を中部電力に要請し、日本のエネルギー政策が大きく軋み始めた。これから脱原発の流れは加速するのか、夏季に向けて電力供給に支障は生じないのか。原発とエネルギー問題に詳しい作家・広瀬隆氏に語ってもらった。(聞き手/ダイヤモンド社論説委員 坪井賢一)

――これまで広瀬さんは原発の危険性、とりわけ浜岡原発の危険性について警告してこられましたが、今回の運転停止をどう受け止めていますか?

 この問題は『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社)で、私も著書を通して訴え続けてきた一人なので、まず何よりも菅首相の決断を讃えたいです。新聞やテレビの報道では「拙速な要請」「唐突な発表」などの論調が目立ちますが、東海地震はいつ起きてもおかしくないわけですから、国民の安全を考えれば即刻止めるのは正しい判断です。

 そもそも、2006年1月に「東海地震が今後30年間に起こる確率は87%」と公表したのは政府の地震調査研究推進本部です。政府自ら東海地震は必ず起こると明言していました。唐突に起こるのが大地震です。その震源域の中心にある浜岡原発を止めることが、どうして唐突でしょうか。むしろ、遅すぎたくらいです。

 5月9日に中部電力が運転停止を受け入れたことで、注釈付きですが原発廃止への第一歩を踏み出しました。今後はこの動きをさらに加速させるために、国民規模で論理的な議論を積み上げなければなりません。

――首相要請は地震対策が完成するまでの「運転停止」で「廃炉」ではありません。この違いはあまり伝わっていないようです。

 私が言いたい問題は、そこにあるのです。原子炉の内部、あるいは貯蔵プールに核燃料があるかぎり、運転中の原子炉と危険性は何ら変わらないという事実は、誰もが理解したはずです。福島第一原発の事故では、運転停止中の4号機で水素爆発が起こりました。原子炉から取り出した使用済み核燃料棒が貯蔵プールに保管されていたため、電源喪失によってアッという間に温度が上がり、水素爆発を起こしたと発表されました。今になって、あれは水素爆発ではなかったという怪しげな説が出ていますが、いずれにしろ、電源喪失で冷却不能になれば、爆発します。したがって、最終的な目的は燃料を搬出することにあるわけです。

 残念ながら今回の首相発言は「廃炉」には言及していません。2、3年で防波壁あるいは防潮堤を建設し、その間に安全性を検証するといった話です。もし中部電力が本格的な工事に取りかかってしまえば、そのために大金を投じますから、浜岡原発が延命するという最悪のシナリオが進んでしまい、浜岡の危険性が去らないまま、菅首相の意図とまったく正反対の結果を招きます。それを止めなくてはなりません。「防波壁の建設計画ちょっと待て!」という世論が、いま急いで起こされなければなりません。
――津波対策として建設される防波壁は、実際にはどれだけ効果が見込めるのでしょう。東日本大震災の津波被害を見ると、そう簡単には食い止められそうにありません。

 まったくです。計画では高さ15m超の防波壁をつくるようですが、その程度ではとても防げません。今回の東日本大震災で津波が陸上を這い上がった最大遡上高さは岩手県宮古市の38.9mでした。これは観測史上の記録では最大ですが、ほんの100年前の1896年(明治29年)の明治三陸地震津波で、岩手県綾里ではほぼ同じ高さの38.2mが記録されています。さらに1771年(明和8年)の八重山地震津波では、石垣島に85.4mもの津波が押し寄せました。日本の歴史から見れば、こうした規模の津波は、頻繁に起こっているわけです。

 しかも、勘違いしている人もいるようですが、中部電力が計画してきたのは「防潮堤」ではなく「防波壁」なのです。防潮堤はダムと同じような堅固な構造物ですが、防波壁はただの高い塀です。そこに津波が一気に押し寄せればひとたまりもないでしょう。津波とは、後ろから次々と水波が押し寄せてくる現象です。それは、巨大な体積とエネルギーをもった水の塊だから、壁の高さ、防潮堤の高さは関係ありません。たとえ堅固な防潮堤が建設されても、今回、宮古市の閉伊川河口で堤防を簡単に津波が乗り越えたように、どこまでも乗り越えてきます。仙台平野を、海水がどこまでも陸をなめつくす津波のおそろしさを私たちは目撃しました。内陸に侵入した範囲は、実に6kmにおよんだのです。

 また中部電力は、電源を高いところに設置すると言っていますが、あの人たちの頭を疑います。これで、大丈夫だと思う人はいますか?

 津波がさらってきた自動車も、船も、岩石も、家屋も、濁流となって、電源のケーブルに激突してくるのです。地盤が2mも隆起するのが東海地震です。それでも電源ケーブルは大丈夫ですか? ケーブルが切断されても、電気が送られるのですか?

 地震対策にしても同じです。今回の東北地方三陸沖地震は、沖合130kmとかなり遠くで起こりました。しかし、想定されている東海地震は、それと同じ規模の巨大地震が浜岡の真下で起こるわけです。想像したくもありませんが、浜岡原発は一撃で終わり、福島第一原発より大規模な放射能放出を一瞬で起こすでしょう。そこへ津波もくるし、電源も遮断される。結論を言えば、そもそも有効な地震対策など、あり得ないのです。

 もちろん、他の原発も危ないのですが、まずは歴史的な周期性から考えて、最も大地震が逼迫している浜岡を止めることは、日本人が生き残るための緊急課題です。そして浜岡を真の廃炉にもって行き、中部地方の経済が大丈夫だと証明されれば、すべての原発を止めてもよいという意識が、日本人のなかに確実に高まってゆくでしょう。

――浜岡を止めても中部電力は、計画停電はしない、電気料金は上げない、節電は要請する、と発表しています。しかしマスメディアは電力不足になるという懸念を書いている。この点をどうご覧になっていますか?

 それは報道に携わる人たちがデータをきちんと調べていないからです。中部電力の言い分だけを聞いて、電力問題の本質を調べたことがないからです。日本全体で見れば、原発がまったく稼働しなくても火力と水力で十分賄えます。下のグラフは、発電施設の設備容量と最大電力の推移を表したものですが、1960年代から最近まで、真夏のピーク時の最大電力が「火力+水力」の発電能力を超えたことは一度もありません。しかも2008年度以降は電力消費が大幅に落ち込んで、ますます発電所が余っている状況です。


 具体的に、中部電力の場合を見てみましょう。異常な猛暑を記録した昨年、2010年夏の最大電力と発電能力を示したのが下のグラフです。ピーク時の最大電力2698万kWに対して、発電能力は原発を除いても3101万kW。つまり、あの猛暑のときでさえ、浜岡原発なしに403万kW(約15%)もの余力があったということです。


 今年の夏が昨年のように猛暑になることはまずあり得ないので、余裕をもって乗り切れます。だから何を騒ぐのかというのが第一の疑問です。テレビと新聞が、産業界や庶民に要らぬパニックを煽っているのです。私が報道記者に言いたいのは、電力会社の発表を鵜呑みにせず、実績値を自分たちで調べてみなさいということです。そうすれば、もっとレベルの高い議論ができるはずです。

 中部電力が今年夏のピーク電力を2560万kWと予測していることは、昨年の異常気象時の2698万kWより138万kW少なく、正しい判断です。電力が不足するかも知れないと言っていたのは、持っている火力を停止しているからです。そのプラントを稼働させるには、燃料の手当てだけが必要なので、三田敏雄会長が急遽カタールに飛んだことも、まったく正しい行動です。その手当てがついたので、浜岡停止を決定したわけです。加えて、来年7月には、中部電力が新潟県に建設中の上越火力発電所が運転を開始するので、最新鋭のLNG2基238万kWが加わって、電気があり余るほどになります。ほぼ360万kWの浜岡原発の稼働率は50%、つまり180万kWが精一杯だったので、上越火力だけでお釣りがきます。

 加えて、政治家もマスメディアも知らないらしいので驚くのですが、日本で発電できる会社は、電力会社だけではないのです。電力が足りないと言うのなら、電力会社は、日本の全産業界にすぐに送電線を開放する義務があります。なぜかというと、IPP(Independent Power Producer=独立系卸電力事業者)がたくさん発電能力をもっているからです。鉄鋼、機械、化学などの業種がこの分野に参入しており、これをフルに活用すれば、たった今、日本全土のすべての原発をストップしても、停電など起こり得ないのです。

 日本で卸電力入札制度が始まった1997年の電気事業審議会の調査によれば、IPPの潜在供給力は、最低でも2135万kW、最大では5200万kWに達するという結果でした。では現在の数字を見てください。2011年現在の商業用原子炉は、名目上 54基 4911.2万kWですが、廃炉になる福島第一原発は469.6万kW。地震で破壊された柏崎刈羽原発2・3・4号機は再起不能の停止中で、330万kW。したがって現在の原子力発電所は、実際には4111.6万kWしか能力がありません。それに対して、総務省統計局のデータによるIPP、つまり自家発電の能力はすでに4000万kWもあるのだから、即刻、全原発の停止ができることを、日本人がまったく知らないのです。テレビと新聞が、見当違いの電力不足パニックを煽っていると批判したのは、このことなのです。

 ところが電力会社が送電線を独占し、高額の送電価格を設定しているため、これらのすぐれた事業者が電力市場から排除され、自由に電気を売れないわけです。日本の国家としては、即刻、送電と発電の事業を完全に分離して、電力の自由化を進め、国民のために送電線を開放させることが、国会と政府の急いで行うべき務めなのです。政治家とマスメディアは、電力会社に飼われた犬ではないでしょう? 産業界を含めた国民のためにあるはずだと、今こそ誰もがその疑問の声を上げるべき時です。


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 東アジア・太平洋地域担当のカート・キャンベル国務次官補は、前原誠司国土交通・沖縄担当相に対し、鳩山首相と岡田外相に伝えてほしい事項を説明した。まず、民主党政権が日米同盟に関わる問題のあらゆる側面を一度に見直そうと試みていることによって、同盟の土台が崩れてしまうかもしれないということ。また、日本政府は、両国政府が協調して取り組めるような一つか二つの問題に焦点を絞って取り組んだほうがいいということ、の2点だ。
キャンベル国務次官補は、民主党政権が、現在の日米同盟の取り決めを見直したり、修正したりしようとして複数の提案を掲げ続けるならば、米国の忍耐にも限界があると警告した。また、同盟の強固さを再確認するための重要な柱として、大統領の訪日が前向きな雰囲気の中で終わることが必要だとも力説した。
前原は同盟の問題で日本政府が実質的にどう対応するかについては、岡田外相に敬意を払って言及を避けた。その代わりに、再編問題について地元、沖縄がどう感じているかに焦点を当て、沖縄での抑止力と、地域社会への負担を軽減するという目的を釣り合わせることが必要だと強調した。前原は、沖縄の政治情勢が、問題を複雑化させる要因になりうると指摘し、1月の名護市長選は、普天間移設の現行案に賛成している現職候補と、反対する新顔候補との対決が予想されていると述べた。
米国が、MV22をキャンプ・シュワブに配備することを計画していることも、地元が普天間移設を受け入れるかどうかに影響してくるとも述べた。沖縄での勢力を維持している社民党は、現行案で決まっているV字形の滑走路を造るための、沖合での建設計画に反対を続けている。キャンベル国務次官補と、東アジア担当のマイケル・シファー国防次官補は、「不朽の自由」作戦を支えている、日本のインド洋での給油活動の重要性を強調し、日本はアフガニスタンやパキスタンでの支援活動を日米同盟という背景だけではなく、多様な立脚点からとらえるべきだと述べた。要約終わり
(同盟管理)
 米国政府は民主党政権が、対外関係、とりわけ日米関係について、どう修正を加えればいいのか検証したい、と考えていることを認識していると、カート・キャンベル国務次官補は、10月11日の会談の中で前原誠司国土交通・沖縄担当相に伝えた。しかし、キャンベル次官補は、「すべての問題を一度に議論の俎上(そじょう)に上げようとする」試みは、同盟関係の土台を崩しかねず、日米両国が条約上負っている義務を果たすための能力について、疑いを生じかねないと指摘した。キャンベル次官補は、前原に、鳩山首相や岡田外相に、両国があらかじめ決めた筋書きに沿って短い期間で取り組めるような課題を一つか二つに絞るよう、伝えてほしいと頼んだ。キャンベル次官補は、米国政府はこれまで、同盟の取り決めについて見直したり、修正を加えたりすることを求める日本側の複数の提案について、公式には反応を返していないが、万が一この傾向が続いたとすれば、米国の忍耐も限界に近づき、民主党政権の提案を批判する圧力が生まれるだろう、と述べた。また、「関係を再確認する過程の一つの要素として、オバマ大統領が、前向きな雰囲気の中で訪日することが必要だ」と述べた。
再編についての読み解き)
3. 前原は、キャンベル次官補の見方を歓迎し、よく理解するよう努めると述べた。しかし、彼は同盟関係の問題については、主導権を握っている岡田外相に敬意を払って、明言を避けた。彼は沖縄県が直面している課題に触れ、沖縄県が、日本の都道府県の中で平均所得は最低、失業率は最高であり、また第2次大戦で唯一地上戦を経験し、多大な生命の犠牲を払った県であることに言及した。前原は、沖縄県民は、基地問題に関してカネで解決を迫られたと感じれば、怒りの感情をあらわにするだろう、と続けた。前原は、国土交通省所管の予算を7分の1も減らすことを計画しているが、沖縄に関しては予算のカットはしない予定だという。こうした事実も、沖縄についての内情をおのずから伝えるものだと、前原は信じていた。沖縄県民の負担を軽減するという目標と、沖縄県内に米軍が駐留することで、中国や北朝鮮に対する抑止力を維持するという目的を釣り合わせなければならないと前原は述べた。
4. キャンベル次官補は、米軍再編や普天間移設に対して沖縄の首長から支援があることは前例がないことに触れ、前原の沖縄の政治情勢への読みを聞いた。前原は、1月の名護市長選が、米軍再編の計画を成功裏に実行する見通しを立てる上ではかぎになると述べた。現職の島袋吉和市長は、移設反対派で、岸本建男前市長の妻から支援を受けている稲嶺進氏に対抗して立候補した。島袋が負けることになれば、普天間移設に対する地域の支援が失われたことを暗示していると、前原は説明した。彼は、MV22(オスプレイ)のキャンプ・シュワブへの配備計画についても、騒音への懸念が生まれることや、最近の環境影響評価には配備が織り込まれていないこともあって、移設が住民にとって受け入れられるかどうかに影響すると述べた。(注:防衛省の高見沢局長はキャンベル次官補に、環境評価の手続きとしては、将来の航空機の配備まで織り込まなくてもよいと説明した。注終わり)
前原は沖縄で依然、力を保っている社民党は、V字の滑走路を沖合につくる建設計画について反対し続けていると述べた。鳩山首相の、県外の選択肢が望ましいという選挙期間中の誓約を、沖縄のすべての地元紙が特別版で伝えたという事実は、米国政府に、再編についての地元の感情の深さを示していると前原は述べた。前原は、普天間移設計画について、特にオスプレイの配備やそれによって必要となる飛行場の設備について、より十分な情報を求め、議論をまとめた。
5. キャンベル次官補は、前原や民主党政権の主立った指導者に、再編の見直し作業で必要ならばどんな情報でも提供すると約束した。また、そうした説明を非公式に行ってもいいと付け加えた。キャンベル次官補は、ビジネス、貿易、教育といったさまざまな分野での交流を進めるためのより幅広い機会の提供を含め、基地問題を超えた分野での沖縄についての対話を始めたいと考えているとも述べた。
(インド洋の給油支援)
6. キャンベル次官補は、「不朽の自由」作戦を支える日本のインド洋給油支援活動は、日本が多国間にわたる重要な問題について関与していることの象徴だと述べた。キャンベル次官補は、給油活動は、米海軍にとっても非常に価値が高いものだと認識してはいるが、米国よりも同盟国により多くの利益をもたらすと指摘した。衆院選の際もその後も、米国は給油を終わらせたいという民主党の呼びかけに敬意を持って耳を傾けてきた。北沢防衛相は、給油を終わらせるという主張は譲れないという姿勢だったが、岡田外相はもう少し柔軟で、最近も、支援のためにできる他の選択肢はないか探すため、アフガニスタンを訪問している、とキャンベル次官補は指摘した。
日本が、オバマ大統領の訪日の際、アフガニスタンやパキスタンでの支援活動に参加すると明言することが、同盟についての確信に力を与えるとキャンベル次官補は述べた。マイケル・シファー国防次官補代理も議論に参加していたが、日本は、アフガニスタンやパキスタンへの貢献を日米同盟の観点からだけ見るのではなく、むしろ多国間協力の枠組みの中で見るべきだと付け加えた。日本の貢献は、日本が果たす世界での役割と釣り合いが取れたものであるべきだと述べた。
(中国)
7. キャンベル次官補は、米国の外交政策は日本よりも中国、イラク、アフガニスタンに重点を置いているようだという日本国内での受け止めについて言及した。そうした受け止め方とは反対に、日米双方の高官は、衆院選が終わってからほとんど毎週会談を重ねており、緊密な交流を続けるのが慣行になっている。キャンベル次官補は、米国政府は、特に中国問題に関しては日米間で認識の違いが生まれることは避けたいと述べた。米国と日本は、中国について協調して取り組む必要があるが、実際は、両国が中国を巡って絶え間なく張り合う状況が続いている。強い日米関係が生まれれば、こうした展開を打開するために必要な確信と柔軟性が生まれるだろうと述べた。
8. この公電は、キャンベル国務次官補が目を通し、問題ないとの確認済み
ルース
発信地:東京 日付:2009/10/15 分類:極秘
鳩山首相の米中韓関連発言をめぐり、キャンベル国務次官補と日本政府高官が議論
1.要約 10月11、12両日にあった日本政府高官との会合で、カート・キャンベル国務次官補(東アジア太平洋担当)は、10月10日に北京であった日中韓サミットの中で鳩山首相が述べた日米関係に関する発言について、米政府が懸念していることを強調した。キャンベル氏は、日本のリーダーに対し、米国の犠牲のもとに他国との関係改善を模索しないように強く求めた。キャンベル氏は、米政府高官が日本との関係を犠牲にしても米政府は中国に焦点を当てていくべきだと発言すれば二国間の関係に危機を招く、と指摘した。
2.防衛政務官の長島昭久氏はキャンベル氏に対し、鳩山氏は日本が米国を犠牲にして、中国や韓国との関係改善をさぐっていると言おうとしたのではないと断言した。外務省アジア大洋州局長の斎木昭隆氏は、外務省としても鳩山氏の発言に驚いたとし、民主党の新政権は、外交分野ではまだ調整の段階にあると付け加えた。キャンベル氏は斎木氏に対し、米国政府はさらに、新しい東アジア地域の枠組みから米国を排除しようとしているかのような岡田外相の最近の発言にも懸念を持っていると指摘した。斎木氏は、この問題についての岡田氏の「頑固さ」を認めつつ、外務官僚は米国を排除することは「考えられない」と考えていると強調した。しかし、斎木氏は、もし日米が東アジア共同体の構成国を議論しようとするなら、中国だけを利することになると断言。中国は地域共同体の創設を日本が主導することを絶対に許さないだろう、とも語った。日本のあらゆる対話相手は、キャンベル氏に対し、日本にとっては米国との関係が最優先だと強調した。これに先立つ10月11日のキャンベル氏との会談で、岡本行夫元首相補佐官と外務省北米局長の梅本和義氏は、鳩山氏の問題発言の有力な原因として性格上の問題点を強調。キャンベル氏に対し、米政府のより高いレベルで懸念を共有するように求めた。要約終了。
米国は鳩山発言に懸念
3.10月11、12両日、日本政府高官との会談で、来日したキャンベル氏は、北京で10月10日に開かれた日中韓サミットにおける、米国との関係に焦点を当てすぎ、アジアを軽視していたとの鳩山発言について、米政府が懸念していることを繰り返し指摘した。キャンベル氏は、米政府は新しい民主党政権が中韓と強い関係を築こうとする努力を支援してきたと述べた。しかし、北京での鳩山首相の発言は、米政府の最高レベルで驚きを巻き起こしたと警告した。「もし米政府が日本より中国にもっと注意を向けたいと公に発言したら、日本の反応はどんなものか、想像してみて欲しい」とキャンベル氏は対話相手に仮定の疑問を投げかけた。このような発言は日米関係にとって修復不能な危機を生じさせるだろう、とキャンベル氏は説明した。さらに、米政府は日本との強固な関係を強調し続け、鳩山発言についての公的な発言を控えるだろうと述べた。キャンベル氏は、日本政府の指導者たちが米国を犠牲にして、中国や韓国とよりよい関係を築きたいと発言するのはさけるべきだと主張した。
防衛政務官の長島氏:誤解
4.10月12日のキャンベル氏との会談で、長島氏は、首相は日本が米国より中国や韓国をより重視すべきだと言おうとしたわけではないと述べた。むしろ、前進しているイニシアチブとして日中韓関係を強化したいとのシグナルを送ろうとしたに過ぎないとした。長島氏は、日本は米国を犠牲にして東アジア関係を構築する狙いはないと米政府高官に保証したいと述べた。
5.キャンベル氏は長島氏の保証を歓迎し、日本政府は日米関係の緊密化を示すための措置を取ることが出来ると指摘した。民主党政権としての「素晴らしいジェスチャー」の一つは、第2次世界大戦中、(フィリピンの)コレヒドール島、バターンでの戦闘に巻き込まれた米退役兵らを日本に招待することだとした。退役兵のほとんどが70歳代、80歳代で、日本政府の歓迎は、米国にとって非常に重要な意義があり、戦後に両国関係がどこまで進んだかを示すことがでるだろう、とキャンベル氏は語った。
斎木局長:外務省も驚いた
6.記者団を前にした鳩山発言は、外務省をも驚かせたと斎木局長は強調。外務省は、日本が過度に米国に依存していると位置づけることは不適切だったと考えている。斎木氏はキャンベル氏に対し、民主党政権は依然として「どの問題で誰が発言するのか」調整の過程にあると説明した。続けて斎木氏は、日米関係が軸であり、日本政府には同盟を犠牲にしてアジアを強調する意図はないと述べた。
7.斎木氏との会合で、キャンベル氏はまた、新しい東アジアの枠組みから米国を排除するかのような岡田外相の最近の発言についても、米国は懸念を抱いていると表明。斎木氏は、岡田外相はこのような提案の中には米国を含めないとかたくなになっていると認めた。斎木氏は「米国を排除することは考えられない」との外務官僚としての見解を述べた。3カ国サミットの参加者は、東アジア共同体構想について、具体的な内容について議論したわけではないと付け加えた。東アジア共同体構想を提唱した際、岡田氏は「隣接する国々の5年から10年の未来についてだけを考えていた」と斎木氏は指摘した。鳩山氏側では、価値観を共有する東アジア諸国の軸を形作ることを主に志向していた。しかしながら、もし米国と日本が東アジア共同体メンバーについて議論しようとすれば、中国だけが得をするだろうと、斎木氏は断言した。中国はさらに、東アジアの枠組みをつくることを日本が主導することを許さないだろうとも語った。斎木氏の証言によると、中国の温家宝首相が、東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス3の過程を通じた東アジア共同体構想の追求に関心を示した際、鳩山氏は北東アジアが主導するには「3プラスASEAN」だ、と反論したという。温首相は答えなかったという。
外務副大臣・武正公一氏:日本は主権国家だ
8.10月12日遅く、外務副大臣の武正公一氏がキャンベル氏の指摘に対し、日米関係は日本の安保政策の基礎であり続けると述べた。武正氏は鳩山発言は中国に対する「単なるリップサービス」との見方を示し、首相は米国との関係を「最重要」と考えていると述べた。しかしながら武正氏は「日本は主権国家としてのプライドがある」とし、中国との関係を改善しなければならないと認めた。
岡本氏と梅本氏:鳩山氏の人柄
9.10月11日、キャンベル氏との会合で、元首相補佐官の岡本行夫氏が言うには、中国、韓国についての鳩山発言は、強固な考えを持つ人に対するときの首相の弱さが出たという。岡本氏によると、鳩山首相はたいてい、自分が聞いた一番最後の強い意見に基づいて意見を述べているという。同じような話として、外務省北米局長の梅本和義氏もキャンベル氏に対し、10月12日のランチ会合で、鳩山首相は、「相手が聞きたがっていることを言いたがる癖がある」とした。梅本氏はまた、北京での鳩山発言は予定されたものではないとし、キャンベル氏に対し、米政府の高いレベルに懸念を上げて欲しいと求めた。
10.キャンベル氏はこの公電を確認した。
キャンベル国務次官補と斎木昭隆アジア大洋州局長が会合
(要約)
1. 東アジア、太平洋地域を担当するカート・キャンベル国務次官補は、9月18日、外務省で斎木昭隆アジア大洋州局長と面会した。斎木局長は、新しい指導者である岡田克也外相を称賛しつつも、新しい政権が日本の官僚機構を従わせると脅しをかけているのは、結局は失敗に終わるだろうと話した。
キャンベル次官補と斎木局長は、米国人ジャーナリスト2人を解放させるためビル・クリントン前大統領の使節団が訪朝したことや、6者協議を巡る最近の情勢、未解決の拉致問題、北朝鮮の人権状況について意見を交わした。斎木は東南アジア諸国連合(ASEAN)のような地域統合の枠組みを作る動きには失望しており、なぜ中国が日米中の3国協議に参加しないことを決めたのか理解できないとした。しかし、今度の日中韓3国の首脳会談については楽観的な見通しを持っていると説明した。斎木は、新しい民主党政権下での日米関係、日韓関係に言及して会談を締めくくった。要約終わり
(新政権と官僚機構)
2. 新しい民主党政権について、斎木局長は、新しく外務省を率いることになった岡田克也外相について「大変知的」として、「諸問題について理解している」ため、就任をうれしく思っていると伝えた。斎木は、岡田は自分の担当する分野(北朝鮮、韓国、中国)では何の問題も引き起こしていないと説明した。民主党政権が官僚機構の力を弱めようと脅しをかけてきたことについて心配している官僚もいるが、民主党がプロの官僚のプライドを打ち砕こうとしているなら、それは成功しないだろうと斎木は述べた。
(6者協議)
3. 斎木は北朝鮮問題に関連して、米国政府が日本と協力し、緊密に相談に応じてきたことについて感謝の意を示した。斎木局長は、北朝鮮に対する国連決議に基づく制裁は維持されるべきだと、岡田外相との間で既に確認したと述べた。斎木は、北朝鮮の最近の行動に中国が敏感になっていることに触れ、中国は、隣国である北朝鮮が不安定化したり、崩壊したりすることを避けようとしており、地政学的な緩衝地帯となってきた朝鮮半島が今後も分断されたままでいる方が望ましいと、中国が考えているとも指摘した。
彼はまた、北朝鮮が6者協議に反発を示している(その不満の大きさたるや、「6者協議」という言葉を避け、代わりに「多国間協議」と呼ぶよう要求しているほどだ)ことに触れ、北朝鮮が協議に復帰するかどうかは米朝間の協議次第だと結論づけた。斎木が北朝鮮側に、6者協議の枠組みから1国を除いた方がいいのかと聞いたところ、答えは「ノー」だったという。6者協議に関心を示してきたモンゴルを加えるようなことをして、表面的な部分で変化を加えることも、今の手詰まり状態から抜け出す一つの手段になるかもしれないと斎木は話した。
(拉致問題)
4. 斎木は、北朝鮮が、2002年に日本国民を拉致したことを認めたことを「誤った判断だった」と信じていることを嘆いた。斎木局長は、まだ40代と比較的若く、国民が最も同情を向けている横田めぐみさんの運命が最も大きい問題だと説明した。
斎木は、拉致問題の新たな責任者である中井洽国家公安委員長は強硬派だとの懸念を示した。斎木は、拉致問題をどう進展させるか決めるためにも、北朝鮮側と席について交渉する必要があり、新しい政権も自民党政権と同じ程度には拉致問題に関心を向けるだろうと結論づけた。
(人権問題)
5. ここひと月が収穫期だが、北朝鮮は肥料の問題や食料生産の著しい低下に直面していると斎木は述べた。結果として、闇市場が非常に広がっている。こうした状況や、国連安保理決議1874の制裁の効果が上がっていることもあって、北朝鮮の指導者層は自分たちのことしか考えられなくなっていると、斎木は述べた。
(地域統合の枠組み)
6. 斎木は、ASEANやARFのような取り組みには「大変失望している」と告白した。首脳たちが同じ発言要領に沿って、同じ分野のことしか話していない傾向があるという。経済規模の違う10カ国の間で決めたあらゆる決定について、合意を取り付けなければならないという事情から生まれる不満はあるものの、「我々はこの取り組みを続け」、中国が東南アジアで支配を確立するのを許してはならないと斎木は述べた。同時に、斎木はASEANの国々は自分たちの利益に沿って計算を立て、しばしば日本と中国を対抗させようとするとも話し、日本が最も頼れる国はインドネシアだと述べた。
7. 斎木は10月10日に予定されている日中韓の3国首脳会談については楽観的だった。斎木は、日本は、中国がより責任感を持った、透明性の高い国になることを望んでおり、今度の会談で、中国がその方向に向かうようやんわりと促すと述べた。
8. 日米中の3国間協議については、斎木はなぜ中国が当初の意向を変え、土壇場になって参加を取りやめたのか、いぶかしがった。キャンベルは、中国の参加を確保するよう米国政府は最善の努力をしたものの、中国からは何の反応も返ってきていないと述べた。
(民主党政権下での日米関係)
9. 民主党の指導者たちの「対等な日米関係」を求める動きについて、斎木は「すでに両国関係は対等なのに、何が鳩山由紀夫首相や岡田外相の念頭にあるのか分からない」と告白した。斎木は、民主党はまだ経験のない政権与党であるだけに、自分たちが日本の強力な官僚機構を抑えて、米国に対しても強く挑戦する新しく大胆な対外政策を行う責任があると示すことで、力と確信にあふれた党というイメージを広める必要性を感じているのだと理論づけた。斎木はこうした考えは「愚か」であり、「彼らもそのうち学ぶだろう」と述べた。
(日韓関係)
10. 斎木は、韓国の李明博政権は未来志向で外交を進めようとしているため、日本にとっては良好だと述べた。2010年は、日韓併合から100周年にあたり、両国にとって大変重要な年でもあると指摘した。竹島のような歴史が絡む問題は、高校教科書の指導要領の改訂が予定されていることもあって近い将来、日韓に緊張を引き起こすかもしれないが、米国は関わるべきではないと斎木は勧めた。一方で、李明博は、日米韓の3国首脳会談かその前後に、鳩山がソウルを訪れることを強く望んでおり、日韓関係は強化されるかもしれないとも述べた。斎木は、岡田外相は首相の訪韓を支持しているが、今のところ首相官邸からは返答がないと続けた。
 民主党政権が昨年3月に公開に踏み切った1960年安保改定時の日米の「核密約」を巡って、公開は米国の世界戦略に影響を与えかねないとして、米側から強い懸念が繰り返し伝えられていたことが分かった。内部告発サイト「ウィキリークス」が入手した日本関係の外交公電を朝日新聞が分析し、判明した。
 核を積んだ米艦船の日本寄港を認めた密約は、冷戦終結後の91年に米軍が水上艦の核搭載をやめたことによって意味を失ったとされていたが、公電からは、将来の政策変更があり得ることを視野に、「暗黙の合意」の継続にこだわる米側の思惑が明確にうかがえる。持ち込みを禁じた日本の非核三原則との関係が問われることも必至だ。
 東京の米大使館発で国務省あての2009年11月27日付公電によると、同日、米大使館でズムワルト首席公使と梅本和義・外務省北米局長が密約問題の扱いを協議した。同公使は「艦艇の核搭載をあいまいにしておくことは抑止戦略の重要な要素だ。ルース大使は調査の行方を懸念している。これは単なる国内問題ではなく、より広い地球規模の文脈で米戦略に影響が出る可能性がある」と述べた。
 梅本北米局長は米側の懸念に理解を示し、「やっかいな問題であり、たぶん普天間より難しい。(鳩山)現政権は『密約』調査がもたらす結果を理解していない」と応じた。その上で局長は、「核兵器についてさらに明解な説明を求める声にどう答えるのか、日米で非公式に協議を続けることが必要だ」と述べた。
それから約2カ月後の10年2月4日付の東京発の公電によると、同日に開かれたキャンベル国務次官補らと梅本北米局長らとの協議でも、密約が話題になった。同次官補が、日米で対処すべき課題として「拡大抑止」、「核をめぐる歴史(日本で『密約』として知られている)問題」を挙げ、「米国の航空機と艦船が、核兵器の搭載を肯定も否定もせずに立ち寄ることができること」が必要だと求めた。
 朝日新聞がウィキリークスから提供を受けた日本関連の外交公電は同年2月末までで、一連の公電の中からは、日米外交当局が同年3月の密約公開時までに引き続き協議を重ねたのか、また何らかの合意に達したのかどうかは分からない。
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 〈核密約の公開〉 1960年の日米安全保障条約改定時に、核兵器を積んだ米軍の艦船・航空機の日本での寄港・通過について事前協議の対象外とする、との密約が交わされたと指摘されてきた。歴代自民党政権はその存在を否定したが、民主党政権発足後、岡田克也外相(当時)が省内の調査を指示し、関連文書が見つかった。検証を委ねられた有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は「暗黙の合意があった」として「広義」の密約と結論づけた。
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「民主党に見る、選挙前の対米観の多義性について」
1.要約:自由民主党を親米として、野党民主党を米国益に非友好的な党と描くメディアの記述は、過度に単純化されている。民主党議員は自民党議員よりも、日米同盟に関する諸問題に、疑問をより鮮明に示してきたが、国内政治の事情や民主党指導層の米国への好意的な態度を考慮すると、現実はもっと種々のニュアンスを含んでいる。民主党は政治的イデオロギーにおいて広範な広がりを見せており、もし8月30日の総選挙で勝てば、米国に関する外交問題について、共有できる政策の下で所属議員をまとめなければならない。「日米同盟の最重要性」と言いながら、より自立した外交方針を掲げる鳩山由紀夫・民主党代表の最近の発言は、日米関係におけるあいまいさの典型例だ。しかしながら、鳩山はオバマ大統領との「信頼の関係」を一刻も早く構築することを望んでいる。要約終了。
米国関連の争点における最近の民主党の立場
2.「政治的変化」のキャンペーンの一環として、民主党は自民党との差別化を模索してきた。民主党の指導層は、日米関係の様々な側面において、ためらいとジレンマを示す公式見解を発してきた。恐らく最も広義で、最も理解されていないものが、(日米)両国間の更なる「対等な関係」だ。鳩山代表は、特に外交と安全保障分野において、日本は米国からもっと自立するべきだと言う。彼個人が反米ではないとはいえ(政治的に保守的で、スタンフォードを卒業した点を含めて、鳩山は米国との強い個人的なつながりを持っている)、鳩山は、民主党は自民党とは異なる外交政策を持つ党であると見せなければならず、同様に、米国との安全保障上での協力に疑念を抱く党員との信頼関係も維持しなければならない。
3.民主党員は、自民党主導の政府や安全保障政策を攻撃する、手頃な政治的争点として、同盟にターゲットを定めた。沖縄からグアムに米海軍を移す費用負担への日本政府の関与について、実際の金銭的負担と、透明性・情報公開への意欲がないと見られている点から、多くが不満を表明してきた。彼らはまた、普天間空軍基地を沖縄各地の代替施設に移転するというロードマップの合意も批判してきた。ついには、日本政府による不適切な情報隠蔽(いんぺい)だとして、多くの民主党員が、米軍維持のための思いやり予算を批判してきた。同様に、同盟の運用よりもモラルや福祉に比重を置く計画には、日本は資金を出すべきではないとも指摘した。
4.参院での過半数割れ、そして8月30日の総選挙で多数派になる保証もないなかで、民主党は、特に日米の安全保障上の協力に様々な視点からイデオロギー的に反対する社会民主党など、小さな政党の立場を考慮しなくてはならない。「自衛隊によるインド洋沖の給油活動は新内閣の下でも継続される」との岡田克也・民主党幹事長の発言の後、鳩山代表は、社民党からの強烈な反対に向き合う羽目になり、給油活動は、民主党の9月の政権移行で即廃止にはならないものの、2010年1月の期限切れの時に更新はされないことになった。
5.とはいえ、衆院選が近づくにつれ、そして民主党の優勢がますます確実になる中で、この党(民主党)は、諸問題でしばしば勇ましかったレトリックを著しくトーンダウンさせている。例えば、最近公開された「マニフェスト」(党綱領)から民主党の反米スタンスが消えたことは、同盟事案について、より現実的な立場へのシフトを示している。民主党の政策立案アドバイザー××××は8月6日、「これは、我々は勝つかもしれず、そうなれば、より責任ある政策を練らなければならないという我が党の認識の反映だ」と語った。
民主党内の幅広い見解
6.民主党の外交、安保政策の専門家の中には、一般的に米国と日米同盟に好意的な立場を示す有力者が多い。彼らの中で、小沢一郎は、かつては政治家人生において同盟への理解者だったが、最近は国内政治における人気集めのために、反米的な外交政策(の公表)を利用している。現在の民主党代表の鳩山由紀夫(スタンフォード卒業生)も、岡田克也・幹事長も、前原誠司・副代表も保守的なバックグラウンドを持ち、一般的には親米的な立場を支持してきた。米国と緊密に協調してきた、他の民主党指導層には、長島昭久(党幹事長代理、SAIS卒業生)、渡辺周(党幹事長代理、コロンビア卒業生)、末松義規(青少年問題特別委員長、プリンストン卒業生)、榛葉賀津也(中東専門家、オベリン卒業生)、白真勲(影の内閣外務副大臣、朝鮮日報日本支部の前代表、公私で頻繁に訪米経験あり)がいる。
7.安保・外交の専門家ではない者でも、日米同盟や米国に好意的な立場を維持している有望株が多く、舞台裏で我々の目的を推進する上で、(都合の)良い立場にいる。この中には、山岡賢次(略)、安住淳(略)、枝野幸男(略)、玄葉光一郎(略)、仙谷由人(略)、野田佳彦(略)、小沢鋭仁(略)、松野頼久(略)、福山哲郎(略)がいる。山岡、安住、福山は、現在の自民公明連立政権と交渉する能力の高さでよく知られている。枝野、玄葉、仙谷、野田は民主党の岡田幹事長と近い関係にある。小沢(鋭仁)と松野は鳩山代表の側近であり、東京大使館とも密接に連携している。
8.日米同盟の重要性に関わる諸問題で時々反目的な対応をするため、一部の民主党議員はしばしば反米と見られている。しかしながら、彼らの立場の現状は、より複雑だ。例えば、山口壮(前次の内閣外務副大臣)は、一方では親米的であり、もう一方では米国の政策に懐疑的であり、この間にいる。外務省の元役人である山口はワシントン、北京、ロンドン(ここで小沢一郎と出会い、出馬を決断した)で勤務していた。山口は現在の日米関係は兄と弟の不平等な関係にあると捉えており、日本の役割を大きくしたがっている。彼は日米地位協定の見直しや現在の普天間移設計画への反対を声高に唱えている。このグループの他の民主党議員には、鉢呂吉雄(民主党、次の外務大臣)と横路孝弘(前衆院副議長)がいて、両者は自衛隊による海外活動に反対する旧社会党議員である。赤松広隆(略)、金田誠一(略)、横光克彦(略、オリジナルはカツヒロと誤記)らは日米同盟の特定事項への反対を表明している。
鳩山はオバマ大統領との緊密な関係を望んでいる
9.米国関連の諸問題に関する幅広い立場があるとはいえ、民主党の鳩山由紀夫代表と他の指導層は、民主党政権は、日本のより自立した外交政策の発展を目指しながらも、米国と協調を続ける方針を明確にしている。7月31日の国内メディアとのインタビューで、鳩山は「日米同盟は最も重要だが、米国に頼らず、より自立した外交政策を発展させることは必要である。アジアと米国の両者に軸を置く外交姿勢が必要である。安全保障において、適度の距離をはかることは可能である」と述べた。鳩山発言の、この最初の部分は、安全保障と外交分野での米国からのシフトを示唆しているようではあるが、彼の結論はそうではなかった。彼は、「最も重要なのは、オバマ大統領とどのように信頼関係を構築するか、だ。この関係を土台に、我々は情報を集めて、包括的な見直しに着手する。基本的な外交姿勢を変える意図はない」と言った。米国との一層の関与を求める民主党指導層の支持の表れとして、メディアは8月1日、鳩山が国連総会とピッツバーグサミットへの参加に意欲を示したことを報じた。××は東京大使館に「民主党はこの二つの場を、鳩山がオバマ大統領と個人的で関係を構築する良い機会だと捉えている」と述べた。
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キャンベル次官補の薮中事務次官との会談(9月18日)」
1.要約:薮中三十二・外務事務次官との9月18日の会談で、カート・キャンベル次官補は、日本の民主党が政権党の役割に定着するなか、緊密な米日の協議の重要性を強調した。この時期における米日の高官レベルでの連携が、オバマ大統領の11月の訪日と来年の米日安全保障同盟の50周年の成功を確かなものにする。キャンベル次官補は、米国は、円滑な米日関係の維持に努めると強調した。
2.続・要約:米日間における核「密約」の真相を調査する岡田外相の計画について、キャンベル次官補は、米国は関連書類を公表しており、これ以上のコメントをするつもりはないと繰り返し伝えた。彼は、その問題に集中することは、米軍の運用上の影響がありうると警告した。地域問題について、キャンベル次官補は、いかなる米国と北朝鮮の二国間会合の目的も、北朝鮮の6者協議復帰を促すことにある、と発言した。とはいえ、米国は国連安保理決議第1874号の実施を続けるし、他国の実施を歓迎する。米国はビルマへのより積極的な関与を始める予定で、この政権への圧力を維持するための日本の協力を期待する、とキャンベル次官補は述べた。11月の大統領訪日を念頭に、キャンベル次官補は、日本の新政権が過去の政策を再検討するとはいえ、新しい関与(イラン問題での協調、アフガン/パキスタン)を打ち出すことが極めて重要になると発言した。薮中は、米日は大局を見失わないよう集中しなければならないと同意し、気候変動のような分野は協調の新しい機会になると述べた。要約終了。
日本の(政権)移行について
3.鳩山・新首相と元野党の民主党による日本の政権移行について、キャンベル次官補は、米国は公的に日本の新政権に信任を与え、政権移行期での強い支持を表明する、と述べた。米国は民主党の綱領(例えば、より自立した日本の外交政策、より緊密な中国との関係など)への支持を公的に表明する。同時に、米国は新政権の発するメッセージを集中して解釈する。彼は、国連総会に合わせての米国大統領の鳩山首相との会合や、スタインバーグ国務副長官やゲーツ国防長官、グレッグソン国防次官補の訪日を含め、米国はこれからの数週間で日本との連続的な高官レベルの交渉に臨むと付け加えた。これらの会合の目的は、(日本の)新政権の考え方に耳を傾けることと、我々自身にとってのフィードバックを準備することにある。とりわけ、日本におけるかつてない政権交代のまっただ中での集中的な会合は、オバマ大統領の11月の訪日が成功することと、来年の米日安全保障同盟50周年の準備をすることを目的としている。
4.キャンベル次官補は、この政権移行期に、民主党からの異なる幅広い見方や、二国間問題や国際問題に関する大量の報道に接することができるものと米国は期待している、と続けた。さらに、民主党からはすでに多くの人がワシントンを訪れ、民主党を代表する立場から意見を述べてきた。キャンベル次官補は、これまでに民主党が出した提案のいくつかは、米日関係の負担になるのは間違いないが、これらの諸問題をうまく調整することの責務はキャリア外交官にかかっており、それぞれが臨機応変に対処せねばならない、と述べた。
5.薮中事務次官は、現在の政権移行は極めて大事な時期であり、慎重に取り扱わねばならない、と同意した。日本が疑いなく世界における経済的、政治的な大国であるのに比して、国内には、日本が対等に扱われていないという感覚があり、民主党はそれを政治的に利用した、と彼は論評した。オバマ大統領と鳩山首相がニューヨークで会うとき、米日関係の基盤(例えば、日本が米国政策のアジアにおける礎石である点)を再確認することが重要になる、と薮中は言った。首相と外相の両方と信頼を築くことが重要だ、と薮中は付け加えた。
核の歴史
6.米日間のいわゆる「密約」を調査するという岡田外相の関心について、米国は既に関連書類を情報公開法(FOIA)の請求で公表しており、既存の公開情報に米国が新たに追加できるものはほとんどない、とキャンベル次官補は発言した。(日本の)外務省が独自に情報収集しても、米国はコメントしないことがベストだろうとキャンベル次官補は言った。米国としては、この問題が、同盟の助けにならないような形での対応を米国が取らざるをえないような状況を生み出さないことを望んでいると、彼は強調した。第三者を入れる形式よりも、外務省自身に調査する権限を与えたことで、岡田は外務省への信頼を示したのだと、薮中は発言した。いずれ外部機関が史料を吟味することにはなるが、外務省が組み込まれたことは前向きな兆候だと、薮中は言った。歴史の再調査は単なる分析にすぎないが、本当の問題点は、これらの調査結果が現状に及ぼす影響であり、慎重に取り扱われなければならない。
北朝鮮
7.キャンベル次官補は、北朝鮮と6者協議に関する、ボズワース大使とキム大使の最近の日本、中国、韓国、ロシアとの会談を再検討し、いかなる北朝鮮との外交も6者協議の文脈で理解されなければならず、北朝鮮の核武装は容認できないという共通の認識があると言った。その上で、複数の対話相手が、北朝鮮との間で一体何が前進できるのかとの懸念を表明したことにキャンベル次官補は留意した。ボズワース大使とキム大使が北朝鮮側と二国間で会うのであれば、それらの会合は北朝鮮に6者協議への復帰を促すものになる。それに加えて、米国は完全かつ明確に国連安保理決議第1874号の実施を続け、一部の国々は制裁を実施する段階にある、とキャンベル次官補は述べた。薮中は、北朝鮮に関する引き続いての緊密な連携、特に決議1874について感謝の念を示し、米国の政策への日本政府の支持を表明した。
ビルマ
8.ビルマについて、キャンベル次官補は、米国は制裁を維持しながらも、この政権へのより深い関与を始めると発言した。新政策を採用するにあたり、米国はかつての孤立戦略は失敗に終わり、米国は「ゲームに参加する」必要があると結論づけた。北朝鮮が最近になって国連安保理決議第1874号の影響でいくつかの中東地域の顧客を失ったのと同じ時期に、北朝鮮とビルマの軍事的な協調が増している。この観点からも、ビルマへの圧力を維持する上で、米国は日本の協力を必要としていると彼は発言した。
大統領訪問
9.オバマ大統領の訪日が成功裏に終わることは重要だとキャンベル次官補は強調した。新政権が、様々な点から旧来の政府とは異なる立場を取ろうとしていることは、米国は理解している。双方が機敏に動く外交が必要だ。例えば、米国は、イランにおける日本とのより緊密な協調や、アフガニスタンとパキスタンへの新しい開発援助の可能性を探ることになる。この文脈において、日本政府は単に「ノー」と言うのではなく、反応を見せることが重要だ。
10.薮中は、米国と日本が、個々の二国間関係でのささいな点にかかりきりになるのではなく、大局を見ながら連携を維持するべきだとの考えに同意した。鳩山首相は1990年比で25%の温室効果ガス削減を打ち出し、この政策はおそらく前進するだろうと彼は言及した。米国と日本の環境技術は世界の最先端なのだから、これは協調の機会となりうる。アフガニスタンについては、薮中は言質を与えなかったが、日本政府はできることをやる、と話した。
11.キャンベル次官補は、この公電内容を確認済み。
ルース
※以下、新聞各紙の引用の訳が添付されている(略)
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http://qualitysaitama-blog.at.webry.info/201105/article_15.html
米国に通じ媚びていた外務官僚、岡田元外相の醜態がウィキリークスで明らかに
<< 作成日時 : 2011/05/08 11:33 >>
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 ウィキリークスが次々と外交官や岡田らの国賊ぶりを暴露している。「全てを直ちに実行するつもりはない」と米側に媚びた岡田、政権スタート時の民主党の外交政策を「愚か」とキャンベルに伝えた斉木アジア大洋州局長らの醜い姿が露わとなった。大体想像は付いていたが実証されたわけで、連中はどう言い訳をするつもりであろうか。岡田などは政界から永久追放に値する。御両人ともそれほど米国好きならいっそのこと国籍を移して日本から去れ。
 そもそも2009年夏に発足した民主党内閣で、最も早く対米隷属に寝返ったのが岡田(前原は最初からアメポチ)。どうせヒラリーの脅しがあまりにも怖くて、ちびりそうになったに違いない。鳩山前首相は、できるだけ幅広い人材を起用しようと思ったのだろうが、それが仇となった。
 身内を簡単に売る輩は、米国からも簡単に捨てられる。国賊など誰が信じられるか。利用されるだけだ。
民主党の外交政策「愚か」 斎木局長が米側に
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011050401000736.html
 【ワシントン共同】斎木昭隆アジア大洋州局長(当時、以下同、現・駐インド大使)が2009年9月、訪日したキャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)と会談した際に、発足したばかりの民主党政権の外交政策について「愚か」と批判していたことが4日、分かった。内部告発サイト「ウィキリークス」が入手した米外交公電を米紙ニューヨーク・タイムズが報じた。
 09年9月21日付の公電によると、2人は同月18日に会談。斎木氏は、鳩山由紀夫首相ら民主党政権首脳が米国との「対等な関係」を訴えたことについて、両国関係は既に対等であり、首相や岡田克也外相が何を考えているのか分からないと明かした。
民主・岡田氏/普天間/地位協定見直し…/公約全ては実行しない/09年末、辺野古移設で密約
http://news.livedoor.com/article/detail/5539710/
ウィキリークス米秘密公電公表
 内部告発サイト「ウィキリークス」は4日、普天間基地「移設」問題や民主党政権の外交・安全保障政策などに関する米秘密公電21本をホームページに公表しました。
 民主党が政権交代時から普天間基地「移設」計画の見直しで米側にすり寄っていった経過や、米側と気脈を通じた官僚の“工作”も生々しく叙述されています。(肩書はいずれも当時)
 総選挙直前の2009年7月21日付東京発公電によれば、キャンベル米国務次官補は岡田克也幹事長と同月17日に会談。この中で岡田氏は「民主党は野党として、普天間移設や日米地位協定、インド洋での給油の(見直し)政策を掲げてきたが、政権についても、全てを直ちに実行するつもりはない」と表明。政権交代前から、公約破棄を米側に示唆していました。
 同年9月下旬から始まった普天間「移設」見直し作業では、「嘉手納基地統合」案が焦点になっていました。
 10月5日付の沖縄発公電によれば、9月25〜26日の沖縄訪問で北沢俊美防衛相は現行案支持を確信。しかし、高見沢将林防衛政策局長はグリーン沖縄総領事に対して、「長島昭久防衛政務官は岡田外相に影響され、依然として嘉手納統合案の検討を指示している」と内情を暴露しました。
 外務省の船越健裕日米安保課長は「外相の主張は、国民新党の下地幹郎政調会長の(根拠のない)意見を吹き込まれたものだ」と述べました。さらに、「普天間基地移設を進めなければ、米議会はグアムへの海兵隊移転経費を承認しない」と現行案(辺野古移設)受け入れで岡田外相を説得していると訴えていました。
 09年12月8日の関係閣僚会議で、「米側がいかなる代替案も受け入れない場合、5月連休後に現行案を推進し、社民・国民新党との連立政権も解消する」との方針を伝えました。この時点で辺野古移設を最優先する事実上の“密約”を交わしていたのです。
 2010年1月の名護市長選で新基地建設反対派の稲嶺恵一氏が勝利した場合でも、公有水面埋め立ての許認可権を持つ仲井真弘多知事に働きかける方針が示されました。(同月10日付公電、いずれも前原氏がルース大使に語った内容 @@@@@
「地家ヤスマサ氏のメール文全文」
 (最新見直し2005.12.24日)
 (れんだいこのショートメッセージ)
 「帝国電網省」の管理人竹下義朗氏が、「Report of the Underground History」シリーズの中で、「20-1.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について  (2002.5.7)」、「20-4.続・大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について -「萩」へマンジュウつくりに行ってくる-(2002.12.8)」としてサイトアップしている。同一文であるが、れんだいこの方でも採りあげておく。
 ちなみに、竹下氏は次のような添え書きをしている。  以下に記すものは、ある情報提供者 ── 仮に「G氏」とでもしておきましょう ── が私に対して、匿名条件にホームページへの公表・掲載を希望してきたものです。
【地家ヤスマサ氏のメール文全文】
 地家寅吉大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫。地家ヤスマサ。
 大室寅之祐最新情報2005秋「萩」へマンジュウつくりにいってくる(「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味。ようは1865年1月(明治天皇かぞえ年16歳)の高杉晋作による功山寺挙兵に大室寅之祐(当時寅吉)が参戦すると言う意味。)
 大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について 2005バージョンアップ      
 2005年6月26日作成

 一、発端
 明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し9年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。
 情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。
 これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
 橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。
 そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、
A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 
B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? 
 と言う事であった。その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某というかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の息子大室弥兵衛(1813年6月14日〜1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日〜1903年2月1日)と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
 大室近祐がワカルといってもせいぜい1863〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400〜)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)
 Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明〜1887年4月24日)と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
 1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
 その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)
 1855年1月?頃(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。
 1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)
 そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常にかわいがって日々をすごしたという。(1863年8月〜9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという。)
◆行方知れずになってから(1866年10月末頃以後の大室寅吉)
 情報 1.大室寅介について(大室寅介とは庄吉のこと)
 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)
 この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!
 大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)
 情報 2.大室虎助について
 (大室虎助とは大室弥兵衛の弟?大室惣兵衛が萩に在住していてその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝満良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)
 新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。
 下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。
 その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊を卒業していたと言う。)
 こんなのあったよ!
 大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 こう考えると正式に明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂
 木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。
 慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路
 不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。
 情報 3.大室寅助(変名)(大室寅之祐のこと)について
 (大室寅助とは行方知れずになった1866年10月末頃から1867年10月頃までの大室寅之祐(寅吉)の変名のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の1歳数カ月で死んだ大室家4代目の血統の寅助になりすましたわけ。)(情報2にも書いたが庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子でスヘの連れ子なので大室家の血統ではないから。) 寅吉(明治天皇)は寅助(早死)ともとれる名前を名乗った。そこには節目の改名というより周囲が大室本家の血統である虎助(斬殺)や寅助(早死)と混同するのを誘うような積極的な作為が感じられる。事実、先にも書いたが後の田中光顕伯爵も明治天皇の入れかえは承知していたが正体は萩の満良親王系の大室虎助(斬殺)の方だと思いこんでいた。
 寅吉が注目を浴びだすのは1863年頃、高杉が奇兵隊を結成して入隊してから。前にも書いたが1863年から1864年にかけて伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年ころから寅吉が玉として浮上してきた。 (伊藤の玉が寅吉。)
 (情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。
 万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。
 万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号で ある「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺 だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めて いた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。
 そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉) はこのころ大室寅助と改名し一時、繰り返しになるが松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867 年3月下旬「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅 助(寅之祐)が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之 祐)にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞 在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年 4月13日、二本松の島津屋敷に入った。しかし新撰組に捕まりそうになったので1867 年10月17日に寅助を寅之祐と改名し亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は 1867年10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉 改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の資料が出てき た話に通じる。(鹿島昇先生調べ)
 1867年11月倒幕出兵軍、海路進発 11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久 光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩 摩屋敷跡あり。)
 11月13日 藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのっ て西宮へ。後上陸。 (1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、山縣有 朋、井上馨、3名によって暗殺される。)
 11月25日 長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し第二陣 1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。 先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血 上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
 大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利 助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような状況のもと、倒幕 軍の進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、 薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮に て「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行っ た。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での 話ではない。)(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと 残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。 このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と 合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇 兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できな かったという。 その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に 明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
 1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が京 都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某 寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京 都御所に入った。 旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われ た。この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえ た。) 慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。 15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳し い。
  1. 天皇すり替えに関しての疑問
 天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。
2.解説
 いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件や井伊大老の暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代 (平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。  案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島f氏の著書に、京都御所内だか ら天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、 鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、(勝てば官軍)旧暦明治元(1868)年1 月15日に、大室寅之祐が京都御所で「新明治天皇」として迎え入れられ即位した訳です。
 それまで玉(大室寅之祐)は京都の薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所 内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、まえに書いたとおり孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に 天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたというより何度でもいいますが鳥羽伏見の戦 いに勝利した薩長軍が睦仁(京都明治天皇)を御所から追放し同じく京都御所に維新の時、大室寅之祐が迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年1月、京都明治天皇(睦仁親王)は即位しました。しかし京都明治天皇の方も中山慶子が流産 したため、ひとさらいつかって拉致してきた子を京都明治天皇(睦仁)にしたてたから睦仁が即位した次の日から京都御所内はパニックになった。そこで睦仁は中山忠能 と中川宮朝彦らに京都御所のまつりごとをまかせ、約1年間中山慶子の実家の中山忠 能邸でひきこもり過ごすことになった。
 慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を上皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、いまでいう総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と 相談し、坂本が慶喜を総理大臣にするため木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすば せた。つまりはじめは、いまふうにわかりやすく例えたら薩摩党と長州党と慶喜党の 3党連立で慶喜内閣を作ろうとした。がその後長州(木戸)がこれに反対。 木戸も 西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。慶喜に権力を持たせると幼帝(寅之祐)の命が危ないと。。。さらに慶喜の背後 にフランス軍がついて薩長の背後にイギリスがついていてイギリスは日本がフランスの植民地になるくらいならイギリスの植民地にしたいと考えイギリスのパークスが、 慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。坂本と中岡が慶喜追討に反対し邪魔になったた め伊藤、山縣、井上馨ら3名に暗殺された。(龍馬暗殺を指示したのは木戸)(勝も 暗殺される予定だったが必死になって逃げ、命だけはたすかった。)薩長軍にイギリ スが加担し慶喜軍にフランスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)勃発。兵の数では 慶喜軍のほうが薩長軍のより3倍もいたが薩長軍の新型兵器アームストロング砲で慶喜軍と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。
  (1868年1月15日以前の) 即位当初の少年京都明治天皇(写真   http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
 睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。 故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京 都明治天皇)は、右利きだった。 御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」。(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。 この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。英・仏と言った欧 米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、 天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、倒幕開国派(薩 長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。 元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王 (当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこ じらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでい た。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、 政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つ まり、馬には乗れなかった。
 即位後1868年1月15日からの明治天皇 ◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真)
  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html
 明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然 痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。 明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。 左利きになったのは、寅之祐がかぞえ5歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐 (明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまっ てあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。 基本は「倒幕開国」派。(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと) わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。 この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・ 近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地 位を獲得。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約 90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書 が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、明治時代軍隊を馬上豊かに閲兵した。
 大室寅之祐の東京明治天皇(写真)(薩長同盟成立の記念写真) 
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html (1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中 央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの 真上のやや左が西郷隆盛)
◆その他 
 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報 興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。
Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??
A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭ースヘ)
Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??
A.と言う事になりますな。結論から言えば。
Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??
A.そうです。
Q.大谷(興正寺)昭←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着 いたという説は?
A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。
Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??
A.間違いではありません。
Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?
A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀 の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折していま す。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係していますが、高松頼常公には 死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が 長州藩の出身です。    
 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺 准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ
Q法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)
A現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。 本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成 大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦 災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。 新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。 幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊 を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊 辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山 階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽く す」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調 達に全国を走り回ったのだった。 佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天 皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だ が、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか?? これでやっと謎が解けたね。 前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無く て、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思っ たがそう言う事は無かったらしいし。 つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもん ね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘ と知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、朝平だった。 スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだ ね。
◆作蔵について(人生何があるか分からない)
 作蔵はおよそ満20歳の頃、スヘ(何と満13歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵がおよそ25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的 に離婚出来、子どもを引き取ったスヘが満41歳の大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇に即位する事が出来た。 前にも書いたが孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。 だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇と した。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱に なった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきったが慶喜軍が鳥羽伏見 の戦いでやぶれると1868年1月10日のあけがた京都明治天皇(睦仁)は京都御所から 追放された。(睦仁の京都明治天皇は亡命したというほうがてきせつか?)(その後、まえにもかいたが比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。)
 一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)前にも書いたがこれが本当の大室家当主大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも 病死。この時、寅吉(寅之祐)はかぞえ6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢女性大室文右衛門の娘ハナは前に書いたとおり大室弥兵衛の本妻だが寅吉(寅之祐)はこの継 母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵は パワフルで海の男みたい。廻船業者で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだ が、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に 使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマン)を田布施 町麻郷から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既におよそ25歳頃と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイ の所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。以前は違う所に住んでいたみたい。だからそれ以前の我が家 の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら)
 「地家」と言う所に家 を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。前にも書いたが、 だから戸籍を作る時自分の家の地名を自分の家の苗字にしたようだ。(「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。)西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途 中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻 郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京から麻郷にやってきて位牌を京都へ持って帰った)葬儀は西円寺。祖父の話によると明治天皇の実の父だから作蔵の痕跡 をけすため愛子が東京からきたらしい。だから、西円寺に作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載は無い。
 明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先 生)目的は作蔵の葬式で西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を(余計 なことをつげぐちして)漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都 に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は 「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)ところで明治天皇の写真は1枚しか残ってないらしい。なぜなら天皇をすりかえたことが 国民にばれるとこまるかららしい。
 大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしがか
ぞえ12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、 石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練 を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気 を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道 場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作った のである。
 孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。 そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしてい た。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名 前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。 大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊 藤の子分同様であった。
 大室寅之祐明治天皇と、追放された京都明治天皇睦仁(孝明天皇の実子とされてる) は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したの も、口封じの意味があったのだろう。 さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷 をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備 につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。 やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛 用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機 させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下し てくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年 正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。
 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、大室寅之祐の明治天皇と京都明治天皇睦仁は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよ う。 当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可 証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗 組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国 艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。
 急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配 なく。
 *孝明天皇毒殺説が定説
 南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴 人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・ ・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」 と断言。従って槍による刺殺説。
 *陸仁追放すりかえの伝承 
 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の 忍者部隊)、指示者は伊藤。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。
 *時期 
 大室寅之祐上京は、慶応3年3月から4月にかけて。六月二七日松平閑そ う(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇 東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天史』。鍋島(情報係は 江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。
 *大室について  
 田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町 麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は 南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、 後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の 材料として紹介します。
 大室家の人々の篤くべき証言 (内容が少々重複します) 
 大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人は 近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年94才、故あってずっと 大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出 をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解説する。
 実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(地家家の壬申戸籍では寅吉)(大室家の 壬申戸籍には寅吉の記載がない) あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在 したとき、三條実美らはこの寅吉(寅之祐)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでい たという。 そのため3学年年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤 俊 輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌3年 3月下 旬、寅之祐が「玉」として上洛した時、庄吉は満一四才であった。  
 これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方 について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを きり通した時、一七 才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命 はなかったであろう。 だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助けよう」ということになっ て実家に帰ることを許されたのである。
 一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐が女性に化けて、芸者風に 装った 女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷の大室家に帰ってきた。その中に後に東京明治 天皇(大室寅之祐)の皇后 になったはずの(奇兵隊)一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで あったという。(だから奇兵隊一条勝子とこの ころ京都の准后御殿に避難したほんものの一条勝子とは別人) この勝子は寿栄姫と もいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていっ た。しかし彼女の子宮には欠陥があったのか、性力旺盛な明治天皇といくらセック スしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に 殺していったという。
 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は 一九人いたが多く は二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病といつ わって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのち に大正天皇になった嘉仁親王である。 一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々し く行列を組んで麻郷にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道案内をさせた。
◆大室庄吉の子供たち
 長男 儀作  (明治19年11月23日生)
 長女 モト  (明治 4年 1月 8日生)
 次女 タカ  (明治 8年11月24日生)
 三女  ツネ  (明治11年11月 1日生)
 四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)
 五女 ツユ   (明治17年 6月28日生)
 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)
 一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談 しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁 親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないという ことが判明した。おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。
 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹 ・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ−と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と 言いだした。 近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているの だ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私 が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実は このような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 と平身低頭した。  
 なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話で ある。そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫 をやる訳に はいかん」という結論になって、この話を断わることにした。  
 だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出が あったのである。  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待 された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。 明治天皇 = 大室寅之祐説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆 どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げ ではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
 鹿島本の引用要約
 ・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か 毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ
 ・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳 聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...
 ・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史に これだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...
 ・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統 正史」
 ・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」 個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょ う。
1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎
2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎
3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に 南朝の功臣が多く祀られている謎
4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだ れ??)
5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎 (226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)
 その他情報
 俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね) から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰され て分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、 こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・
◆長州大室家系譜?
Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。
A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から 拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」 死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意 かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と 書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処 で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。) やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそ うですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、 南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地 に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト 改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かり ません。●は削除されています)
 この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)
 この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・ 系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書い てある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大 室虎之祐」の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ)とあります。こちら も横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。 先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは 天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命 じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒 に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。 私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部 分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に 朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」と やたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません) 追加((年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼 い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり 寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。) 書きたいのは山々なんですが、私には読めません。 系譜の最後に、 「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわか りませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書 いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系 譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。
 その他
 1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。 大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の 間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。 南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様である。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊 ・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのである。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、 その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁 を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)
  各藩の幕末の玉
 尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。 水戸藩の「玉」は有栖川宮。 長州藩の「玉」は山階宮。 島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。 紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。 徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝 高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さん に聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も麻郷に有っ た。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が今も残っている。
調査結果
 寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘 樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太 郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。 以上    
 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無 い) 光格天皇の息子孝明天皇か? 慶子が流産した明治天皇1 替え玉京都明治天皇2 大 室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母 は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐 明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 ) 三笠宮寛仁
桂宮は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞) (大室は南朝) 以上  
 情報を整理すると 高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は 一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。(大室ヒサ子さんは麻郷の大室家に高松宮が2回きたと証言)
 橋本の家の系図誰か教えて 
 大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯 太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻  真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1 人の妹あり) 龍伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。
 話を整理してみる。(ややこしいので)
 1、大室明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。
 2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父大室明治天皇、母松下豊子。 (だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっ ているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十 世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という 名前で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の 存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとん ど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門 跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で) 山本静山尼の息子が千宗室。
 3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。九条節子皇后と東久邇稔彦の間の子が三笠宮崇仁。で三笠宮崇仁の隠し子が三笠宮晴子さん。今現在も京都に在住。三笠宮崇仁の双子の妹は糸子とよばれていた。(京都で)
4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反 薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭 和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。 高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人 のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を 中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮崇仁と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮崇仁がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違 うから。大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のと ころへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が 風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くた め、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。
 >>明治10年頃の宮中の勢力分布は岩倉派と大隈派とで熾烈な争いがあった。 中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派 と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉 郎(実は岩倉具視の息子が堀川辰吉郎)は宮廷を追われてしまった。そう、堀川家と は岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放さ れた千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で 死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。
 >>だけど千種と千草が二人いたとはすぐには信じられないのであるが。 このへんが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官 し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで 88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけで す。だから岩倉と堀川御所を追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。
 一部紹介します
 2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と 「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的 で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月出産予定の雅子様懐妊、流産の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子とし、こっそり養子にしようとして失敗した・・ ・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有って衝撃的でした。一度目を通して見 て下さい。
 じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月出産予定の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザスクープ)で産婦 人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公 式な宮内庁発表)と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣 きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、 雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と 宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽 が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実な ら、大変な事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして 貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。 >>大体、2000年8月の出産予定、御懐妊騒動って何だ?
 そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自 分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き 籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた 一連の騒動の事。)
 ◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?
 熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と 2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。 政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会 の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天 皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社 本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明 治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、 遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ 程古くないから共言える。
 さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎 の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とす る。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽野綾子 2.正田巌(日銀 を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋 本久美子だが、今上陛下はまだ17年しか経っていないので権力はそれ程無い。浩宮も 権力はそれ程持ってない。議員歴42年の橋龍こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。
 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚 なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の 子か?)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それ より前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから) 二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この 時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。 三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少 し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室浩宮 (小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女 (雅子様の妹か?)に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・ 麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。 で、浩宮の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする 右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産した から右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。(このとき堤教授が解任された) 北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言 う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコ ミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。
 一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠しこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男 の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマ スコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力 によって和子の娘を愛子とした。浩宮は、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと 言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つ まり後ろ向きな発言に変化。 佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝浩宮 支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分 かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして 戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを 削り、橋本派以外女帝改正には消極的であると言う。2〜3年後か?に最終決着が付く 筈だ。

 年次 事績
 天保8(1837)年 9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。
 弘化4(1847)年 9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。
 嘉永3(1850)年 1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。
 嘉永6(1853)年 6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍 に就任。
 安政5(1858)年 この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。
  4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かも んのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣と し、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。
  7月16日 将軍・家定薨 去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。
 万延元(1860)年 3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)
 文久2(1862)年 7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。
 7月6日 長州藩、長井雅楽(う た)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線 を進み出す。
 文久3(1863)年 4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。
 5月10日 長州藩、この日 より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。
 7月2日 薩摩 藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。
 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合し て公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。
 元治元(1864)年 1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も 変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・ 伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守 衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、 薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国 もこれに同意したと思われる) 。
 7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。
 7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。
 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。
 慶応元(1865)年 5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。
 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時 寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月頃、記念写真を全員で撮る?)。
 慶応2(1866)年 1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。
 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永は しきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島f 説)。
 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。
 6月 20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。
 10月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分 けして探索)
 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。 岩倉が便所の箱番を買収しておいた。
 慶応3(1867)年 1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜 で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じ て仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわ たって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。
 3月頃大室寅之祐(当時寅 助)が『萩』から京都へ上洛。
 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩 に行かせると約束する。
 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が 入京し、寅助(寅之祐)を半年余教導。
 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と 会談。
  6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。
 7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり (『明治天皇紀』) 。
 10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に 対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、伊藤、山縣、井上馨等に暗殺され る。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人 と言われる。
 10月下旬、 寅吉が寅之祐と名をかえ芸者連れて田布施町の麻郷に帰っ てくる。通史にある王政復古の大号令(12月9日)とは、田布施町麻郷の井神(地家 の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会 議も同様)
 慶応4(1868)年 明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍 の「錦旗」により(もちろん幕府軍の方にも錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を 喪失し惨敗。  
 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。 (それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京 都御所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用 (『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。大室寅之祐 (東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 
 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁 (大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠 に御強壮(『木戸日記』)
 (慶応4(1868)年) 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 
 8月に慶喜と中川宮 (1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府 に対しクーデターを計画したが失敗。

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 「大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう!2005春」(http://blog.livedoor.jp/asdthkou/archives/14904964.html)を転載しておく。  大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう!
 大室寅之祐明治天皇問題を国会でとりあげてみませんか?(明治維新真実情報公開法案の早期法案提出を)
 2005年02月23日
 大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう!2005春
 nariaki@vanilla.ocn.ne.jp
 私、地家は大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫です。国会中継をみていましたが橋本龍太郎さんは証人喚問に応じません。
なぜなら日本で一番権力をもった男がハシリュウだから。(天皇陛下より権力をもってる)なぜか。彼(ハシリュウ)は大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎との間に生れた橋本龍伍の長男だから。僕の父とハシリュウはまたはと子の関係です。橋本龍太郎と2号との間に生れた和子さんの娘が敬宮愛子です。
 要するにマサコさんに2001年12月に押し付けて国民には内密に養子にしたわけ。皇太子さまの父は徳川恒孝で恒孝さんの父は大室近祐。(岸信介と昭和天皇が田布施コネクションの権力で美智子様にヒロノミヤをおしつけたわけだ)近祐の父は大室儀作。儀作の父は大室庄吉。庄吉の父は地家作蔵。作蔵の父は海賊某。
 アキヒト天皇の父は三笠宮崇仁。崇仁の父は東久邇稔彦。稔彦の父は中川宮朝彦。朝彦の父は徳川斉昭。
 今日、週刊誌よんできたけど皇位継承1位は浩宮に確実に決定していて第2位を愛子にするか秋篠宮にするかが問題になってる。まず、おさらい。日本で一番権力をもってるのは橋本久美子その次が橋本龍太郎(明治天皇のメイの孫)。2番目に権力もってるのは皇后様でその次が正田巌。3番目に権力もってるのは曽野綾子。皇室にてらし合わせると橋本龍太郎の妾との間の娘和子の娘愛子が1番権力。2番目の権力は今上陛下。3番目の権力が皇太子様。(明治天皇の弟大室庄吉の玄孫)。政治家に当てはめると1番権力者がハシリュウ。(橋本派)→女帝改正派。2番目がポスト小泉の麻生太郎(旧宮沢派)(今上陛下の実の父は三笠宮崇仁だから麻生太郎の妹が寛仁殿下に嫁ぐ。3番目が小泉、晋三の旧安倍派。→岸と昭和天皇の権力で裕仁のいと子の曾孫を浩宮として皇室にねじ込むいわゆる右翼派。(明治天皇の子昭和天皇派)
 そこで女帝にするかそのまま放置していずれ秋篠宮が天皇にゴールするか。僕は後者のほうだと思う。小泉も愛子を女帝にしたくないから結果的に放置。→結果的に血は水より濃しでアキヒトと美智子との間の子秋篠宮が次の次の天皇になるだろうし眞子さま佳子さまも美智子様のまごである。
 女帝にするように必死なのは橋本派が必死だからであと2年弱でハシリュウが引退して権力がなくなるから で愛子を女帝にしようと必死になって女帝改正しようとしている。しかし小泉もポスト小泉の麻生も女帝改正に消極的。皇太子様がなくなられたら2050年ころ秋篠宮が天皇になるかも知れないしあきしのは病弱だから早死にするかもしれない。2050年頃は当然眞子も佳子も愛子も結婚してるから天皇家の後継者はゼロになる。
 以下情報

「萩」へマンジュウつくりにいってくる→饅頭作るとは死体の山を築くという意味→つまり萩へ人切りしに行くという意味でようは高杉晋作が挙兵した功山寺挙兵にさんかしにいくという意味。
 田布施町のタブー2005春
@大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について2003
      
 2003年2月14日作成
一、発端
 明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し6年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。
 情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。
 これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。(橋本龍伍の戸籍) 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。
◆山口県田布施町の大室さん
 橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)(橋本龍伍の戸籍謄本より)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。
 そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、
1.寅之祐の大室家が本当に南朝光良親王から24代も続いているのか? 
2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? 
 と言う事であった。その後、大室家(後の大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家4代目に当たる。
 さて、大室寅之祐が地家作蔵の息子で行方知れずになる1864年頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。(そう書かれた木簡が出てきた。)(鹿島昇先生調べ)
 大室近祐がワカルといってもせいぜい1863〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(後醍醐天皇の玄孫)(1400〜)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)
 これを踏まえて本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから 1845年頃迄には父、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)とスヘが田布施町麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(興正寺昭坊は興正派門主一族)作蔵(1824年?〜1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
 1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。
 1854年2月29日に三男朝平出産。(俺の高祖父)
>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、西円寺の実家へ戻る。 大谷(興正寺)昭(照景?)の家。(京都には帰ってないであろう)
 1854年下旬(10月?頃)独身の大室弥兵衛(41)とスヘ再婚。地家寅吉は大室寅吉に、地家庄吉は大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃〜1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?) その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時 40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。つまり後南朝大室家の血統は地家作蔵の血統になった。
 そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。 1867年4月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知れずとなったのであろう。(1867年3月ごろ麻郷村の人間が手分けして探した)
◆行方知れずになってから(1866年7月以後の大室寅吉)
 情報 1.
 (大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)
 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)
 この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!
 情報 2.
 (大室虎助とは大室弥兵衛の弟?(分家)が萩に在住しててその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝光良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)
 新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。
 下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。
 その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助のこと。庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊をとっくに卒業してたと言う。
 こんなのあったよ!
 大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)
 不動堂
 木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。
 慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。
 木津屋橋油小路
 不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。
 情報 3.
 (大室寅助とは行方知れずになってからの大室寅之祐(寅吉)のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室家の血統の寅助になりすましたわけ。)(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だから。) 
 寅吉が注目を浴びだすのは1863年7月頃から。高杉が奇兵隊を結成。伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉として浮上してきた。 伊藤の玉が寅吉で慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。
 (情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。
>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。
 万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。
 そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。 通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
 その後、寅之祐は再度上ラク(薩長軍を率いて)。 慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。旧暦1868年1月10日の早朝睦仁をごしょから追い出し、その後睦仁は比叡山方面の寺に亡命し維新後も僧としてそこで生き延びた。その後1月10日その日のうちに大室寅之祐が御所に入る。御所の人事を一新し(維新)慶応4年1月15日大室寅之祐が明治天皇として即位する。そこからの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。 つまり1868年旧暦1月15日からの明治天皇の伝記は通史のとおり。
1.天皇すり替えに関しての疑問
 天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。
2.解説
 いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島f氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治天皇」として迎え入れられた訳です。
 それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年7月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇が存在しなかった事(空位)になります。(多分半年間、中川宮と慶喜が京都御所を仕切っていたと思われる。)
 慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を天皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜をたすけるために木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまり薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとしたが長州がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。慶喜の背後にフランス軍がついてたが薩長の背後のイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。薩長にイギリスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見)勃発。慶喜と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。
 即位前(睦仁親王時代)
 即位当初の少年京都明治天皇(写真
  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
 睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
 御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。
 この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
 元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。
 即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇
 ◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html
 明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。
 左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
 基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。
 この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。
 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
 大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html
 (1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)
◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報
興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。
Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血
統ですか??
A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭ー
スヘ)
Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??
A.と言う事になりますな。結論から言えば。
Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??
A.そうです。
Q.大谷(興正寺)昭←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着
いたという説は?
A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。
Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??
A.間違いではありません。
Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?
 A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  
 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ
 新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。
 幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。
 佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??
 これでやっと謎が解けたね。
 前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。
 つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。
 ◆作蔵について(人生何があるか分からない)
 作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、41歳の独身、大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。
 孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。
 一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5〜6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。
 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)
 大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
 孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
 大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。
 さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、
>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。 >寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。 >睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。
>寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。
>睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。 性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。 遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。 官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
 当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。
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 急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。
*孝明天皇毒殺説が定説
 南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。
*陸仁暗殺の伝承 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤(三 ケ月不明の時期あり)。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。 *暗殺の時期 大室寅之祐上京は、慶応三年三月。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。
*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。
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 大室家の人々の篤くべき証言  
 大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってずっと大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解説する。
 実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(戸籍では寅吉) あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅 之祐を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため二才年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居す ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤 俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年 四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。 これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらをきり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助けよう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。
 一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。その中に睦仁の皇后になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりであったという。 この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ たのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多くは二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。
 一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 しく行列を組んで田布施にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道案内をさせた。 
◆大室庄吉の子供たち 長男 儀作  (明治19年11月23日生) 長女 モト  (明治4年 1月 8日生)次女 タカ  (明治 8年11月24日生)三女 ツネ  (明治11年11月 1日生)四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)五女 ツユ  (明治17年 6月28日生) 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)
 一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠 宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自 分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。
 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ−と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」と平身低頭した。なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出があったのである。 近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。
 明治天皇 = 大室寅之祐説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
 鹿島本の引用要約
・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ
・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...
・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...
・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統正史」
・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」
 個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。
 1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)
 その他情報
 俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・
 ◆長州大室家系譜?
 Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。
 A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)
 やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、
 南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)
 この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)
 この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・
 系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。
 先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。
 私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは山々なんですが、私には読めません。
 系譜の最後に、
 「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  
 1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。
 大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)
 尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝
 高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。
>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)
 現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。
 本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。
 大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)
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 調査結果
 寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。
 以上 田布施町戸籍課 
 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)
 光格天皇の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )
 三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)
 (大室は南朝)
 以上 田布施町戸籍課 
 情報を整理すると
 高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。
 橋本の家の系図誰か教えて 
 大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。
 話を整理してみる。(ややこしいので)
 1、明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。
 2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父明治天皇、母松下豊子。(だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という名前で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)
 3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。、(三笠宮の父は東久邇宮。)との一致により)テイメイ皇后と東久邇宮の間の子が三笠宮崇仁。で双子の妹の晴子さんも父母同様。今現在も京都に在住。三笠宮晴子さんは別名、糸子とよばれていた。 (京都で)
 4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。
 高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違うから。大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。
>>明治10年頃の宮中の勢力分布が未詳のため大正天皇の実の父に関しては保留。
 中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎は宮廷を追われてしまった。そう、堀川とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。
>>だけど千種(千草)が二人い たとはすぐには信じられないのであるが。
 このあたりが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。だから岩倉と堀川御所に追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。
 三笠宮晴子は今も生きていて御所で、いとこと呼ばれていた。山本尼の方はやすこと呼ばれた。
一部紹介します
 2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。
>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。
>>大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?
>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)
 ◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?
 熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。
 政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないから共言える。
 さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)
 二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。
 三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。
 北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。
 一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。
 佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2〜3年後か?に最終決着が付く筈
だ。
 年次 事績
 天保8(1837)年
 9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七
男として誕生。
 弘化4(1847)年
 9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。
 嘉永3(1850)年
 1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。
 嘉永6(1853)年
 6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。
 安政5(1858)年
 この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。
 万延元(1860)年
 3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)
 文久2(1862)年
 7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。
 文久3(1863)年
 4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。
 元治元(1864)年
 1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。
慶応元(1865)年
 5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写真を全員で撮る?) 。
 慶応2(1866)年
 1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島f説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。(刺殺では無く、毒殺されたとの説もあり)
 慶応3(1867)年
 1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。 7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預かる。この仏像は京都睦仁の遺体であろう。同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) 。(7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼る。これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される)。 10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が芸者連れて田布施の麻郷に帰ってくる。(寅吉を寅之祐と改名。)通史の王政復古の大号令とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)
 慶応4(1868)年
 明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕軍の方も錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。
 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。睦仁親王(京都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)
 (慶応4(1868)年)
 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。
 慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。


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(私論.私見)
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第182回『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の新聞批判(10・12・05記)


【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1) ロシアの実情を知らずに戦争報道 (2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘(4) 新聞は日露戦後の総決算せず

(5) 新聞は戦争を勃発させる力もつ

【2】『朝日新聞社史』を読んで

(1)「(池辺)三山、強硬論を唱える」(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

(3) 新聞の売れ行きは飛躍的に増大

【3】米西戦争とアメリカの新聞

【4】むすび 言論人の反省

 NHKテレビ『坂の上の雲』の第2部(第6回日英同盟 第7回子規、逝く 第8回日露開戦 第9回広瀬、死す)が始まった。いよいよ戦闘場面にさしかかる。日露戦争開戦当時、日本の新聞・世論はどうだったのか。

 作者司馬遼太郎は「あとがき」のなかで、「日露戦争前、政府はもっぱら避戦的態度であり、自然、政府系の新聞とされる国民新聞や東京日日新聞は自重論であり、これら数種の新聞は経営の危機が伝えられるほどに人気がなかった。民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。この開戦への世論形成をしたのは朝日新聞などであった。学者もこれに参加した。」(文春文庫第8巻 P303〜304)と書いている。

 自らも新聞記者(1948〜1960)を経験したことのある司馬は、作品の中で随所に内外の新聞記事を引用しながら、書き進めている。ここでは司馬遼太郎の新聞観といったものを見てみたい。(敬称略)

【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1)ロシアの実情を知らずに戦争報道

 まず、日露戦争の開戦時に日本の新聞は何を伝えていたか。1905(明治38)年1月25日付け東京朝日新聞の大見出しに、「突如、露京に革命の烽火揚る」とあるのを槍玉に挙げ、ロシア革命の前兆となる「血の日曜日」の勃発を「突如」というのはありえないとしている。

「朝日」だけでなく、当時の日本の新聞は、戦場以外に海外特派員を配置するほどのゆとりがなかったことを認めながらも、数ヶ月前からロシアで革命の機運が高まっていたのをキャッチできず、「いかに国際感覚に欠けていたかがわかるであろう。」と痛烈に批判している。

「それにしても敵国の状態について不勉強すぎるであろう。そういう無知が、この見出しの感覚にも出ている。」「・・新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてはまったく欠けていたという点で、なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった。」「・・・この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争を戦っていたのである。」(文春文庫第6巻 P203〜205)

(2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

 それに比べて、ルーズベルト米大統領は東京の公使館から日本の新聞論調をまとめた報告を受け、奉天会戦後、日本人が慢心しはじめていることや日本の国力窮乏について「知りすぎるほど知っていた」と書いたあと、新聞の危うさを次のように指摘している。

「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。・・・新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。」(文春文庫第7巻 P218〜219)

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘

 さらに、日露戦争後、ルーズベルトは、「日本の新聞の右翼化」という言葉を使って新聞自体の体質変化を警戒していた。奉天会戦以前の2月6日付けですでに駐伊・アメリカ大使に「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう。」と書き送っていたことを紹介している。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。」と記している。 (文春文庫第7巻 P219)

(4)新聞は日露戦後の総決算せず

 日露戦争では日本、ロシア両軍とも兵士12万人近くがそれぞれ犠牲になった。しかし、日本の新聞は戦後総決算をせず、それが日本軍隊の絶対的優越性という迷信を生んだと司馬は見る。

「(日露)戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。という冷静な分析を一行たりとものせなかった。・・・もし日本の新聞が、日露戦争の後、その総決算をする意味で、「ロシア帝国の敗因」といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずから負けた」ということになるであろう。

 もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本でおこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。」 (文春文庫第6巻 P206)

(5)新聞は戦争を勃発させる力もつ

 秋山真之が滞米中、米西戦争が勃発した。「米西戦争の戦訓は、のちの日露間で行われた海上封鎖と決戦のためにどれほど役に立ったか分からない。・・・日本人がロシアとたたかうためのヒナ型を提供するためにアメリカ人とスペイン人が戦ってくれたようなものであり、その戦訓の取材者として天が秋山真之をキューバにくだしてくれたようなぐあいである。」(文春文庫第2巻 P253)

 しかし、それはそれとして、その米西戦争は米大統領が好まないのに新聞社同士の販売競争のために仕組まれた戦争だったことに触れ、日露戦争でも似たような取り組みをした日本の新聞の実態を浮き彫りにしている。

「良質な新聞は別として、低級な新聞(黄色紙=イエローペーパー)が紙面を挙げて戦争気分をあおった。かれらは『無知で浅薄で景気のいいことが好きなアメリカおやじ』どもの感情に迎合し、迎合することによって新聞を売ろうとした。真之の滞米中におこった米西戦争は、戦争というものの社会科学的必然性はなにもなくて勃発した。アメリカ政府を戦争にひきこんで行ったのはハースト系の新聞とピュリッツア系の新聞であったという点で、世界戦史の珍例とすべきものであった。」(文春文庫第2巻 P230〜231)

【2】『朝日新聞社史 明治編』から

(1)「三山、強硬論を唱える」

 当時、東京、大阪の主な新聞で非戦論を唱えていたのは、東京日日、毎日(東京横浜毎日を改題)、萬朝報。主戦論をとったのは大阪・東京の両『朝日』、時事新報、大阪毎日だった。

 このうち、『東朝』で主戦論の急先鋒は池辺三山だった。社史に「三山、強硬論を唱える」の項があり、三山が社説(明治36年4月30日)で、クリミヤ戦争を例にとり、「ロシアの横車には兵力に訴えることもできるぞと、という強硬論をはいた。」とし、『三山日記』には元老山縣を訪ねて意見を聞いたところ、山縣が「積極論を唱えた」とあり、新聞記者が政治家を動かす場面が出てくる。(432ページ)

 『大朝』では内藤湖南、西村天囚、鳥居素川が開戦前から戦争中を通じて主戦論を唱え、内藤湖南は社説「和戦の決と其特質」の最終回で植民地・新市場の必要性を説き、大陸にむかって開戦に踏み切るべきだと強調している。

「我邦は実に人口の繁殖の為に土地の必要あり。而して工業生産物の排泄の為に新市場の必要あり。・・・この大なる要求を満足せしめ、永く他国の圧迫より脱するは戦争の結末による外なし。」(435ページ)

(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

 1905(明治38)年9月1日の大阪朝日新聞には、「白骨の涙」という題の絵が載っている。その絵解きとして、「29日の講和談判会見に於いて成立したる条件は一切日本の譲歩のみ・・・。という書き出しで始まる全文を黒枠で囲み、社説は『屈辱的な条件』としてその破棄を要求した。『白骨の涙』の絵はサレコウベが泣き、軍刀は無残に折れている。激越な内容の紙面である。」という説明文がついている。(480ページ)

 同じ日、池辺三山は社説「講和談判の成立」で、「講和条件中の満韓処分問題のごときは、すでに日本が実力によって解決していたものであり、のこるは 償金、割地、露艦交付、海軍力制限の4条件のみであるのに、当局はこの主張をことごとく放棄した。」として、日本政府は国民を侮辱し、国事を誤るものだと、激しく攻撃した。

 その上、『東朝』は講和条件反対の投書を募集する社告を出した。投書の数はぞくぞく増え、9月4日には社説を止めて社説の載る面1面を投書に当てた。内容は小村全権の責任をなじるもの、ロシアの保護国になれと皮肉るもの、桂内閣を大露探(ロシアの大スパイ)ときめつけるもの、狂歌、漢詩に託して痛罵するものなどだった。(479ページ)
 この記事の4日後に「日比谷、焼き打ち事件」が起こった。司馬はなぜか「日比谷焼き打ち事件」についてはあまり触れていない。
 
(3)新聞の売れ行きは飛躍的に増大

 経営が傾きかけていた新聞社にとって日露戦争は救いの神だった。

「日露戦争が始まると新聞の売れ行きは増大した。1904(明治37)年上半期(4〜9)の1日の平均発行部数は『大阪朝日』が2万195部増え15万2403部に、『東京朝日』が2万195部増え8万7266部になった。」(487ページ)とある。

 号外も驚くほど多かった。大本営、陸・海軍、外務省の発表ものを中心に、1日5回発行された日もある。「毎日」は日露戦争中、号外を498回、1ヶ月平均22回発行したという記録がある。


【3】米西戦争とアメリカの新聞

 ピュリッツアと米西戦争について、ピュリッツアの評伝(『マスメディアの先駆者』講談社)の著者香内三郎は、概ね次のように記している。

「マッキンレー大統領は気乗り薄だったようだし、スペインもアメリカの要求を全部呑んだのに、ピュリッツアも含めた『新聞』が戦争を起こしたのだ、とまで言われている。ピュリッツアが後年、教育に力を入れ、コロンビア大学に『スクール・オブ・ジャーナリズム』を作り、『ピュリッツア賞』を設けたのは、その反省であり、懺悔のしるしだと言われている。

「『ジャーナル』と『ワールド』を先頭にするジンゴイズム宣伝、好戦熱病の扇動がなければ、あるいは回避できたのではないか。」

「・・・諸新聞の、虐げられた『キューバ』を解放せよ、という叫びはまことにものすごいものがあった。スペインを『悪玉』にしたて、キューバ人民を『善玉』にすえ、あることないことととりまぜてエロ、暴行、サスペンスを好きなだけ盛り込めるこのテーマは、部数競争に血道をあげる両紙にとって、まことに格好のテーマであったのだ。」(96ページ)

「アメリカ・ジャーナリズムの名誉のために一言しておけば、1897年にも、戦争反対を叫ぶ新聞はあった。『ヘラルド』『イーブニング・ポスト』『トリビューン』『タイムズ』。ある計算によると、ニューヨークの好戦紙全部の総計は、およそ156万部、反戦紙の部数は以上の総計で約22万5千部だった。」

【4】むすび

 ジャーナリズムの落とし穴に、センセーショナリズムとスキャンダリズムがあることは歴史が教えている。米西戦争と日露戦争の報道もその一つである。軍隊での経験もある司馬遼太郎は、戦争を勃発させる力をもつ新聞に脅威を感じ、『坂の上の雲』の新聞批判を通じて、太平洋戦争に突き進んだ日本の新聞のあり方に猛省を促したかったのではないか。

 尖閣問題やビデオ流出事件、さらに北朝鮮の延坪島砲撃、米韓・米日の軍事演習などの動きを見るとき、太平洋戦争で演じた新聞の轍を2度と踏まないように、日々、自省自戒のもとで報道をしてほしい。ここで太平洋戦争後明らかにされた言論人の反省を改めて噛み締めたい。#

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(言論人の反省)

高杉孝二郎(毎日新聞西部本社編集局長)
 毎日新聞の社史によると、高杉は「その日まで戦争を謳歌し,煽動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民にお詫びしなければならない」として、敗戦の翌日から8月20日まで5日間、終戦の詔書と公的機関の発表・事実経過だけを掲載し、2ページしかなかった紙面の半分以上を白紙で発行した日(8・17)もあった。

 高杉は白紙で発行することによって、社長に新聞の廃刊を進言したという。この白紙事件に対して、1カ月後、毎日新聞会長の高石真五郎は「西部本社の取った態度については小生、ただ呆然として解するを得ず」と怒りを表している。高杉は、その前の8月29日、退社した。 
緒方竹虎(朝日新聞社主筆)
 緒方は伝記『緒方竹虎』に収録された遺稿の中で次のように書き遺している。             
「〜日独伊三国同盟が調印された時、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったろうと思う。然し如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか」
美土路昌一(朝日新聞社長)
 美土路は『回顧談』の中でマスコミ人の一人として何も出来なかった自分を責めた上、次のように反省している。
「〜全新聞記者が平時において大声叱呼した言論自由の峰火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼らを誤らしめたその無気力、生きんがための売節の罪を見逃してはならぬ、・・・言論死して国遂に滅ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である。」
福岡s二(読売報知新聞社会部記者)
 福岡は、真珠湾攻撃の朝、宿直勤務で、大本営報道部から呼び出され、三宅坂の参謀本部へ駆け付けた一人。
「思想的に締め付けられ、批判記事を書けば経営が脅かされる時代だった。新聞だけが責めを負うべきでない。世の中全体が戦争遂行に追従していったのだ。」
宮本太郎(読売報知社九州総局長)
 宮本は、紙面で沖縄決戦での特攻隊の任務の重要性を説いた。
「上からの圧力で筆を曲げると言うよりも、目先の記者活動に自分を埋没させてしまい、時流に流されていった。」
 戦後、自分の書いた記事を悔やみ、新聞社の戦争責任をめぐり発生した「読売争議」に身を投じ、その後退社した。
(福岡s二記者、宮本太郎局長の話はともに『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』読売新聞社編)
柳沢恭雄(日本放送協会報道部副部長)
 柳沢恭雄はラジオニュースの責任者の一人。玉音放送の前夜、内幸町放送会館で反乱軍将校に拳銃を突き付けられ、決起の放送を強要されたが、これを拒否した。
「私の放送人としての仕事は戦争とともにあった。大本営発表とともにあったともいえる。一生懸命やればやるほど間違いを犯す地位で仕事をやってきた。この責任は永久に残る。わが生涯の戦後は終わる事はない。」(『20世紀放送史』NHK編)

第101回 59回目の8月15日を前に(2004・8・9記)

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(参照)

【日比谷焼打事件】

1905国民大会がきっか(明治38)年9月5日、日比谷公園で行われた日露講話条約反対のけになって発生した大暴動。交番や政府系新聞社などを襲う。翌日続き、鎮圧に限界も例が公布される。

【センセーショナリズム】
人の耳目を引くことを第1とする立場。扇情主義。

【ジンゴイズム】 
好戦的な愛国主義

【米西戦争】
1898年アメリカとスペインとの間に行われた戦争。キューバの反乱とアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件とを契機として勃発。この結果、アメリカはキューバを保護国とし、プエルトリコ、・グアム島を手に入れ、フィリピン諸島を獲得、ドイツがスペインから南洋群島を購入した。

(以上、いずれも広辞苑から)



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[時代の証言者]共産党・不破哲三(26)〜(29)
どこへ行く


[時代の証言者]共産党・不破哲三(26)知恵要した「天皇制容認」
2010.12.07 東京朝刊 12頁  


 ≪共産党は2000年代に入り、党規約と綱領を改定し、天皇制や自衛隊の「当面の存続」を容認した。21世紀の早い時期の民主連合政府実現を目指し、不破氏らが進めた「現実・柔軟路線」の総仕上げの意味を持つと受け止められた≫

 2000年の規約改定では「前衛政党」などの言葉を削除したことが話題になりました。これは、共産党が「前衛」なら、国民は「後衛」なのかといった誤解を取り除くためでした。

 1961年に採択した綱領を04年に改定したのは、40年を経た日本と世界の実情にふさわしいものにすることが目的でした。

 当面の目標について、資本主義の枠内で可能な民主的改革である「民主主義革命」とする基本路線は引き継ぎましたが、内容は大幅に刷新しました。苦労というか、知恵を要した点の一つは天皇制の問題でした。

 前の綱領は、日本の憲法体制を「ブルジョア君主制」と位置づけ、「廃止」を掲げていました。でも、「君主制」という場合、君主には「国政上の権能」がある。イギリスを例にとると、女王に形だけとはいえ国政上の権能があり、施政方針演説も女王が行います。

 しかし、憲法は「天皇は国政に関する権能を持たない」と定めており、前の綱領の誤認でした。

 新綱領ではこれを正し、憲法擁護の立場をはっきりさせ、「国民の統合の象徴」を個人が世襲で担う制度の是非は、将来の国民の選択に委ねることにしました。

 世界論では、アジアやアフリカ、ラテンアメリカが独立国の集団に変わったことも重視し、少数の大国による支配の時代は終わったことなどを強調しました。

 社会主義論、資本主義を乗り越えた未来社会論では、研究の成果を大いに発揮し、大胆に言えば、レーニン以来の国際的定説を書き換えてしまいました。従来は「労働に応じての分配」が共産主義の第1段階としての社会主義の段階、「欲望に応じての分配」が共産主義の段階という考え方が定説でした。しかし、レーニンによる誤ったマルクス解釈だったことがわかったので、マルクス本来の考え方を復活させたのです。

 ≪共産党は〈1〉マルクスは未来社会を2段階に分け、分配方式に基づく青写真を描いていない〈2〉レーニンが展開した「2段階発展論」はソ連社会の変質を美化する理論的道具立てとなった−−などと主張。マルクスの社会主義的変革の中心は「生産手段の社会化」であり、「生活手段は私有財産を保障する」とするが、他党は「共産党の本質は変わっていない」と連携に否定的だ≫

 他党がどうであれ、政党の「綱領」とは国の基本的問題や将来像についての考え方を示すものです。民主党は「マニフェスト選挙」を持ち込みましたが、マニフェストには将来展望が必要です。今の政治の混迷は、綱領を持たない政党の限界を示していると思います。

 目標達成には歴史的時間がかかりますが、粘り強く実現に努力していきます。

(政治部 鳥山忠志)


[時代の証言者]共産党・不破哲三(27)世代交代へ議長引退
2010.12.08 東京朝刊 12頁 


 世代交代を円滑に進めることは、組織にとって重要なことです。2000年の第22回党大会で私は党委員長から議長となり、志位和夫書記局長が委員長に就任しました。

 志位さんは1990年、35歳で書記局長になりました。93年の衆院当選後は予算委員会総括質問はすべて分担してもらい、00年大会では委員長が国政で党を代表することを明確にし、11期務めた衆院議員も03年衆院選を機に引退しました。

 議長を退任したのは、06年の24回党大会です。

 規約や綱領の改定など自分の代でやらないといけないことは終えました。その一方、選挙戦で日本中走り回ることは体力的にも無理になってきました。

 ただ、議長をひいた後も、知力と体力がある限り、しかるべき場所で力を尽くすのが義務と考えていました。前例のないことですが、みんなに相談し、党常任幹部会の一員として活動することにしました。大会では「党のどんな部署にも終身制はない。私の選択が、党の人事政策の弾力性を増すことに役立つよう希望する」とあいさつしました。

 いま最も重要なのは、内外の政治と党活動のすべてを議論する常任幹部会委員としての仕事です。

 もう一つは党社会科学研究所長としての理論活動です。この分野では中国やベトナムの共産党との理論交流も始まり、それぞれ3回の会談を重ねています。その国の社会主義のあり方など、政治会談では主題になりにくい問題も突っ込んで話し合うことができます。

 若い世代をつかむことの大切さも痛感しています。

 ≪2000年代に強まった自民、民主の2大政党化の流れの中、国政選挙で中小政党が埋没する傾向も指摘される。7月の参院選での議席減など党勢退潮が続く共産党は9月の中央委員会総会で、要因の一つとして党員の高齢化を挙げた≫

 昔は、若い人がどんどん党に入ってきました。「共産党排除」の風潮が長く続く間に、私だけではなく、その後に入ってきた世代も年配になってきました。

 これまでも党本部で研究講座を開いたり、大学生を対象に講義をしたりしてきましたが、インターネットを通じて全国規模の連続教室を始めることになりました。テーマは党綱領と古典で、7日に第1回目を開いたばかりです。1年間続ける予定で、ぜひ成功させたいと思っています。

 私自身の理論研究では、国会議員や党の書記局長、委員長、議長を務めていた時期に比べると、少し余裕ができたので、いろいろな主題が浮かんでいます。

 一つはスターリンの大国主義の歴史。ソ連時代の資料が広範に出てきたので、それも活用して戦前・戦後の歴史を追跡したい。

 もう一つはマルクスの「資本論」の形成史です。以前、「恐慌」論を中心に取り組みましたが、その完結編を書きたい。理論の研究はきりがないのです。

(政治部 鳥山忠志)


[時代の証言者]共産党・不破哲三(28)道理尽くし北朝鮮批判
2010.12.09 東京朝刊 10頁  


 北朝鮮や領土にかかわる問題が熱い外交課題になっています。日本の外交力が問われていると思います。

 北朝鮮には1966年と68年、党代表団の一員として訪れました。最初は、ベトナムを支援する国際統一戦線結成で合意しました。

 2度目は状況が全く違いました。その時の目的は、北朝鮮の「南進」の企てをやめさせることにありました。金日成(キムイルソン)総書記は「南に革命が起きたら、主導的に対処する」と公言し、韓国では68年初めから、青瓦台(大統領官邸)襲撃事件や「武装遊撃隊」による事件が頻発していたのです。

 8月の会談で「南進に支持できるような大義はない」と指摘すると、金日成も「今は南に進む時期ではない」と答え、目的は一応達しました。しかし、異常な事態の進行も感じました。

 宿舎には盗聴器が仕掛けられ、金日成は「ある国の代表団は部屋に戻るとこんなことを言っている」などと平気で言うのです。2年前の側近は姿を消し、個人崇拝も強まっていました。

 ≪80年代、韓国の全斗煥(チョンドゥファン)大統領らが爆弾テロを受けたラングーン事件(83年)、日本漁船銃撃事件(84年)、大韓航空機爆破事件(87年)など、北朝鮮が関与したテロ行為が相次いだ。一連の行為を批判した共産党と北朝鮮の関係は断絶した≫

 日本人拉致が問題化するのも80年代です。政府は88年、共産党議員の追及で「北朝鮮の拉致の疑いが強い」と初めて認めました。

 98年、北朝鮮の弾道ミサイル発射後、「交渉窓口もないまま非難合戦の過熱は危険」と国会で指摘しました。その後、超党派国会議員団の北朝鮮訪問、政府間交渉再開が続き、2002年の日朝平壌宣言も延長線上にあったと思います。私たちは北朝鮮の無法ぶりを早くから知り、必要な批判や闘争を遠慮なくやってきました。その経験からも、無法な相手にこそ、外交で道理と節度のある態度を貫くことが重要だと思います。

 ≪共産党は、北方領土問題の根は千島列島「引き渡し」を盛り込んだ1945年のヤルタ協定にあると主張。連合国が戦後処理方針とした「領土不拡大原則」に背いたソ連の「領土拡張主義」を正し、全千島返還を求めるべきだとする≫

 国会に出る前からこの問題に取り組みました。論戦でも何度も取り上げ、橋本竜太郎首相との党首会談で提起したこともあります。

 政府は、51年のサンフランシスコ講和条約で放棄した「千島列島」の範囲を問題にしています。しかし、講和会議では日米全権が国後(くなしり)、択捉(えとろふ)両島を「南千島」としたのだから、国際的に通用しない議論だと思います。

 尖閣諸島を巡る問題も72年の日中国交回復時、田中角栄首相と周恩来首相との会談で扱いを棚上げにしたことが原点にあります。

 主権にかかわる外交では、道理を尽くして立場を説き、論戦を避けない覚悟も重要なのに、その論理と度胸が欠如していたのではないかと痛感するのです。

(政治部 鳥山忠志)


[時代の証言者]共産党・不破哲三(29)入党64年 世界観揺るがず
2010.12.11 東京朝刊 12頁 


 16歳で共産党に入党してからもうすぐ64年になります。入党した頃、党組織は整備されていなかったけれど、私も含めて若者には活気がありました。自分で考えないと何もできない時代でした。

 時代の違いはありますが、今も若者が日本の次代を担う主役であることに変わりはありません。社会に目を大きく開いて、自分の生き方を探求してほしいですね。

 長い間には色々な時期があり、離合集散も経験しました。例えば、「50年問題」による党分裂から解決に至る過程で、東大時代に一緒に活動していたかなりの人が党を離れていきました。

 でも、私自身はこの運動をやめようと考えたことは一度もなかった。ジグザグはあっても、根底にある世界観への確信は揺らぎませんでした。

 党員として半分以上は党を指導する立場にありましたが、「大事な問題で間違った決断はしない」ことを心がけました。物事の流れは本当に長い物差しで見ないと分からないけれども、指導者の決断は10年、20年先まで問われるからです。

 ≪1990年代以降、西欧で勢力を誇っていたイタリア共産党は党名を変更、フランス共産党も党勢が衰えた≫

 世界の共産党の多くは第2次世界大戦後、理論も路線も財政までもがソ連のひも付きになり、そこから抜け出せなかった。ソ連崩壊後の共産党の退潮は、それが大きいと見ています。

 私たちの党にも、かつてソ連への妄信がありました。「50年問題」の苦い経験を転機として、大国の干渉は許さない「自主独立」を重視してきました。

 今も共産党に対する根深い偏見はありますが、私たちが予想外の躍進をしたのはつい十数年前です。根深いとはいえ、偏見に客観的な根拠はないんですよ。

 ここ数年、短命内閣が続いています。政党の組み合わせを変えても、希望を託せる安定政権ができない。これが、共産党を除く「オール与党」政治の結末ではないでしょうか。私たちが批判してきた外交面の「アメリカの傘」、内政面の「財界依存」というしがらみに縛られた自民党政治の終末現象であり、それと共通の土俵で連立政権を作っても活路はないと思います。

 今、国民の閉塞感は深刻です。社会保障をはじめ、資本主義国で下位となる指標は多い。国民の潜在能力は高いのに、政治が閉塞感を生み出しているのです。

 「政権交代」とその結果を経験したことは、重い意味を持っています。

 選挙でしか日本を変えることはできません。時間はかかっても、閉塞状況の打破を求める国民の願いと、二つのしがらみからの解放を追求する私たちの努力は、必ずや合流すると信じています。

(おわり)

     ◇

 この連載は政治部の鳥山忠志が担当しました。次回は、14日から「小説と脚本 平岩弓枝」が始まります。記事コピーサービス(有料)は読者センター((電)03・3246・2323)へ。@@@週刊金曜日 2010.12.17 (828号) 転載不可
「投書」にお応えします       安川寿之輔(75歳)
 一一月二六日号で、山田文男さんから名指しの批判を頂いたので応えたい。投書は、「先に喰わなければ、自分か喰われてしまう……荒々しい帝国主義の時代」に〈強兵富国〉のアジア侵略路線を先導した「最も誠実なリアリストであった」福沢諭吉を批判するのは誤りである、という福沢擁護の論旨である。
 同じ時代に福沢の路線を「我日本帝国ヲシテ強盗国二変ゼシメント謀ル」道のりであり、「不可救ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ」と的確に批判した吉岡弘毅を私が紹介したのは、『小国主義』(田中彰著、岩波新書)の「歴史の水脈」の可能性の示唆であった。台湾出兵に猛反対して海軍卿を辞職した勝海舟も、一貫して「日清韓三国提携」を主張し、日清戦争と戦後処理に反対し、「この次敗けるのは日本の番だ」と予告していた。足尾銅山「鉱毒問題は日露問題よりも先決」と主張した田中正造は、「海陸軍全廃・無戦争の山田さんの期待する〈「公的」な平和諭〉を主張していた。
 山田さんは、一転して福沢の『福翁百話』の「蛆虫」論について「蛆虫であることの徹底的な自覚だけが、人間を真に実践的な『公』への取り組みに駆り立てる」という、いささか難解な読み込みをしているが、この場合の福沢の「人生は見る影もなき蛆蟲に等しく、朝の露の乾く間もなき……間を戯れて過ぎ逝くまでのこと」という蛆虫人生論は、「自国の利益のみを謀て他(国)の痛痒を顧みざる・・奪はざれば奪はれ、殺さざれば殺さるるの獣劇を演ずる……獣界の戯」(『福翁百余話』)を前提にしていることを、山田さんは見落としている。
 私が丸山眞男の福澤論評価に厳しいのは、福沢が「帝国主義者」になった理由を、「思春期に達した子供が非常に悪い環境に育ったために性的な方面で、他と不均合にませてしまった様なもの」(「明治国家の思想」)というお粗末なたとえ話で、福沢の「強盗国」路線をもっぱら帝国主義的な国際環境のせいと弁明するだけで、福沢白身が侵略戦争を主導・先導した事実に対する思想家としての主体的責任(「思想内在的な問い」)を、丸山が一切不問に付しているからである。つまり丸山の二項対立史観は、〈明治前期の「健全なナショナリズム」と昭和前期の「超国家主義」〉のコントラストを強調するばかりで、なぜ両者の落差が生じたのかという切迫した問題、両者の連続性という重要な問題の考察を一貫して不問に付しているのである。
上村ゼミ(上村泰裕)http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~kamimura/fukuzawa.doc
福沢諭吉『学問のすすめ』ノート
初編(明治5〔1872〕年2月出版)
「人間はみな平等だ」と言うが、社会のなかには格差がある。それはなぜか。
その格差は生まれながらに決まっているのではなく、学問を修めて難しい仕事をする人が豊かになるだけである。→cf.属性主義から業績主義へ(「人」から「働き」へ)。
その学問とは、実学(実用の学、実証の学)のことである。cf.コントの実証哲学、スペンサーの影響。
学問をするには、分限(権利の範囲)を知ることが大切である〔なぜ??〕。分限とは、他人のじゃまをすることなく自分の自由独立を実現することである。
自由独立は、個人だけでなく国家にもある。外国と自由に交易すべきであり、国際法違反の侵略に対しては断固抵抗すべきである。
明治維新によって、生まれながらの階級差別は廃止された。このうえは、政府に対する不満があるときは正々堂々と議論すべきである。それが国民たる者の権利である。
政府が権威主義的になるとしたら、それは国民が愚かだからである。国民が学問を修めれば、政府も寛容になるはずである。
現代においては、国を愛する人はそれほど焦ることはない。ただ学問を修めて、国民たる身分にふさわしい智徳を身につければよいのである。
二編(明治6〔1873〕年11月出版)
学者:物事の道理をわきまえた人。家を建てられる人。
文字の問屋:本を読めるだけの人。道具の名前を知っているだけの人。
《人は同等であること》
人間の平等とは、ありさまの平等ではなく、権利の平等のことである。
権利とは、人々の生命・財産・名誉を重んじるということである。これらは天が定めたものであって、人間が冒してはいけない。
ありさまの違い(貧富強弱)があるからといって、権利の平等を冒してはいけない。
政府と国民の関係も、権利について言えば平等である。
国民には、税金を払い法律を守る義務がある。政府には、法律を設けて国民を保護する義務がある。これは御恩ではなく約束(契約)である。
国民が愚かで法律を守らない場合には、政府は力で脅さざるをえない。暴政を避けるためには、国民は学問を修めて政府と同じ地位に登らなくてはいけない。
三編(明治6〔1873〕年12月出版)
《国は同等であること》
日本人も英国人も一人ひとりの権利は平等。したがって、ありさまにおいて貧弱な国も、権利においては富強な国と平等。
貧富強弱のありさまは、天の定めではない。国民の学問と気力によって変化する。つまり国民一人ひとりが独立してはじめて一国の独立がある。
《国民一人ひとりが独立してはじめて一国の独立があること》
第一条 自由独立の気力のない人は国を深く思うことがない。しかし少数の主人だけで国を守ることはできない。国民一人ひとりが日本をわが国と思い、国を守るべきである。それが権利に対応する国民の義務である。
第二条 国内において自由独立の気力をもっていない人は、外国人と接しても損をしたり恥をかいたりする。これは個人の損や恥ではなく、一国の損であり恥である。
第三条 自由独立の気力をもっていない人は、他人の暴威を借りて悪事を働く。今後、外国人の名目を借りたりする者が出たりすれば、国のわざわいとなるだろう。
要するに、国民に独立を勧めたほうが、国の独立にとっても有益である。
四編(明治7〔1874〕年1月出版)
《学問をする人の役割は何か》
日本の独立が危ぶまれている。国民は国民の分限を尽くし、政府は政府の分限を尽くし、協力して独立を維持すべきである。
学術、商売、法律の三点で日本は外国に劣っている。この三者は国家の独立のために必要である。
専制政府と無気力の愚民の組み合わせでは進歩は望めない。一国の文明は政府の力だけで進められるものではない。
国民が成長するまでは権威主義で行く、という方策は間違っている。かえって国民の成長を妨げる結果になるからである。
個人としては誠実有能な人が、政府に入ると無能になる。個人の能力よりも社会の気風によって決まる。文明の進歩は政府任せにしておいてはいけない。
人に先立って手本を示す人物が出てくるべきである。洋学者がこの役割を果たすべきであるが、そもそも洋学者も政府志向が強い。日本には政府だけあって、国民がいない。
政府は命令することはできるが、実例を示すことはできない〔ところが、明治政府をはじめ、開発主義政府は実例を示した!〕。
われわれは民間にあって、学術を講じ、商売に従事し、法律を議論する。私立の実例を示すことが目的である。
政府だけでなく、民間も社会の事業を担うべきである。政府を恐れたり疑ったりするのではなく、近づき親しむべきである。
この趣旨を普及すれば、真の日本国民が生まれ、学術・商売・法律も盛んになり、国民の力と政府の力がつりあい、国の独立を維持することができるだろう。
五編(明治7〔1874〕年1月出版)
学校・工業・陸軍・海軍など、外形的なもので国の文明を評価してはいけない。文明の精神とは、人民独立の気力のことである。
人民が無気力なのは、政府がすべてのことをやってしまい、人民は宿屋の居候の気分でいるからである。
幕府は力だけで治めていたが、新政府には力と智がある。そうすると、国民はますます政府に依頼するので、文明の形は進んでも文明の精神は衰えてしまう。
国の文明は、政府でも一般庶民でもなく、中流階級(ミドルクラス)から起こる。中流階級が政府と並び立って一般庶民を指導すべきである。
ひとりの人にアイディアが浮かんだら、それを実現するために民間団体を組織する。政府はそれを保護するだけでよい。文明の形が進むほど人民の気力も増すことになる。
いま日本で中流階級の役割を果たせるのは、学者しかいない。政府に依頼せずに文明を育てるべきである。本を読んでいるだけでなく、実際に事を起こすべきである。
六編(明治7〔1874〕年1月出版)
《法律はなぜ守らなければならないか》
政府は国民の代理として警察と司法を担う。そのための費用は個人では賄いきれないので、政府と国民が社会契約を結んだのである。
法律は政府が作ったのではなく、国民が作って政府に委ねたのである〔民主制でなくても?〕。したがって、法律は厳重に守らなければならない。
私裁は認められない。赤穂義士の敵討ちは間違っている。延々と弔い合戦が続くだけで、社会を害すること甚だしい。テロリズムで社会がよくなったためしはない。
御大法と内証事。法律を軽蔑する悪習を生み、人民に不誠実の気風を生じる。法律だから守るのであって、巡査が恐いから守るのではない。
法律はなるべく簡潔にすべきで、いったん定めたからには厳守すべきである。不満があるときは遠慮なく議論すればよいが、悪法でも現行法は厳守しなくてはいけない。
七編(明治7〔1874〕年3月出版)
《国民の役割は何か》
国家は一つの団体であり、国民はそのメンバーである。国民は、国家の主人であり客でもある。法を立てるとともに、法を守る。
客として。行政、外交、防衛などは社会契約によって政府に与えた権利であって、国民は不正不便を理由にそれを破ってはいけない。不正不便は静かに政府を説得すべきである。
主人として。国民は国の家元であり主人である。政府はその名代であり支配人である。政府の仕事は役人の私事ではなく、国民の名代としての公務である。
不法者を取り締まれないなら、政府も不法者の仲間である。役人の不行届きによる損害は、国民の税金で償われる。国民は主人であるから、平生から政府を監督する責任がある。
税金を払うのは国民の義務であるから、不平顔をすべきではない。税金を払って保護を受けるのは、道理にかなっているだけでなく、安上がりの買い物である。
政府がその権利の範囲を越えて暴政を行なう場合、国民がなしうる行動は次の三つ(ウェーランドの説)。@いやいや政府に従う、A力で政府に敵対する、B非暴力不服従。
@はよくない。愚民と権威主義政府の組み合わせを再生産するだけである。「天の正道」(自然法natural law)と「政府人造の悪法」(実定法positive law)。
Aもよくない。内戦となれば、正しさではなく強さがものを言う。暴力をもって暴力に代えることになり、よりよい政治を実現することはできない。
Bが最もよい。改善のための犠牲が少ない。静かに正しい道理を説く者に対しては、権威主義政府でも反省するはずである。
文明を益する殉死と、文明を益しない楠公権助の討死。日本の歴史で殉死の名に値するのは、佐倉惣五郎だけである。
八編(明治7〔1874〕年4月出版)
《自分の好き勝手に他人をコントロールしてはいけない》
ウェーランドの身心自由説。@各人の自由を達すべきである。A智恵がその役に立つ。B情欲を満たすために働く。C情欲を制する至誠の本心もある。D善悪とも意思に基づく。
独立と言っても、孤独とは違う。自然法に基づく他人の権利を侵さないことを前提にしつつ、互いに交流すべきである。
上下貴賤の名分にやかましく、他人の命令に従うことを第一に考える社会では、いつも魂が借用のものになってしまう。これは自然法や文明の本旨に背いた考えである。
夫婦について。人と人とは平等であるから、家庭内の男女も平等である。腕の力という有様をもとにして男女上下の名分を決めるのはおかしい。妾制度はおかしい。
親子について。親孝行はよいが、無理に強制することはできない。人間が動物と違うのは、ただ子どもを育てるだけでなく、教育して社会化する点にある。
九編(明治7〔1874〕年5月出版)
《学問の目的は二種類ある》
個人の衣食住を満たすのは自然のおかげであり、それだけでは誇るに足りない。ただ独立の活計を得ただけでは、動物と同じである。
人間の本性は群居を好み、孤独を好まないものである。家族だけでは十分でなく、社会(人間交際)を形成することになる。
政府が法律を設けるのは社会を完全にするためである。学者が人を教育するのも、社会を保持するためである。文明が進歩してきたのは、こうした古人の貢献によるのである。
科学が進歩すれば人間交際はいよいよ広くなり、したがって人々の心は和らぎ、国際法を遵守してみだりに戦争を起こさなくなる。
有力の人物は衣食住だけで満足せず、社会の義務を重んじて文明の進歩に貢献しようとする。それによって、後世の人に感謝されるはずである。
明治維新は戦争の変動ではなく、文明に促された人心の変動である。この機会を生かして、学者は社会のために大いに勉強すべきである。
十編(明治7〔1874〕年6月出版)
《前論のつづき》
江戸時代の学者は学問しても実践する場所がなかったので、いよいよ学問を深めざるを得なかった。今はすぐ就職口が見つかるので、かえって学問が深まらない。
自由独立にともなう義務。内の義務…衣食を他人に頼らない、一家独立の主人。外の義務…協力して国の独立を達成する、独立の日本人。
今は西洋の文明を一方的に吸収せざるを得ないが、自前の工業や学術をもつには学者の成業を待つしかない。昔と違って、学問した人にやりがいのある仕事ばかりである。
自食の説は、和漢の古学者の説や士族の生活態度を批判するために述べたのであって、それだけでは不十分である。真の学問をするには初等教育だけでは不足である。
農業をするなら大農民になれ、商業をするなら大商人になれ。学問をするならマイホーム主義に甘んじてはいけない。多少の貧乏をしてでも、学問を大成させるべきである。
十一編(明治7〔1874〕年7月出版)
《儒学の教えは偽善者を生む》
上下名分論は、悪気があって生まれたのではなく、ただ空想から作られたものである。家族内でやる分には問題ないが、家族外のことにも家族主義を適用するのは不可能である。
社会は大人と大人の団体であり、他人と他人の交際である。そこに大人と子どもの関係を適用するのは、たんなる空想家族主義である。
中国では、政府と国民の関係を親子や牧羊に喩えることがある。これは失礼ではないか。事実として、政府と国民は他人である。情実ではなく契約に基づいて治めるべきである。
物知り旦那と律儀の忠助。人物があてにならないのではない、専制があてにならないのである。他人と他人の関係に家族主義を持ち込んだのが失敗のもとである。
大名と忠臣。尽忠報国の家臣が、なぜ出入商人から賄賂を取るのか。結局、名分や専制抑圧は全くあてにならないものである。
名分とは虚飾の名目。それと職分とは別である。それぞれの職分(実際の役割)を守るべきことは言うまでもない。
十二編(明治7〔1874〕年12月出版)
《演説のすすめ》
民選議院設立建白書も出たが、演説ができなくては議会を作っても仕方ない。アイディアが普及するか否かは、その伝え方の巧拙次第である。
学問とは読書のことだけではない。本を読んでも、知識を活用できなければ無学と同じである。身についた学問は、本やノートを失くしても残る。
学問の要点は読書ではなく精神の働きにある。精神の働きを活用する方法として、観察・推論・読書(知識の収集)、談話(知識の交換)、著述・演説(知識の普及)がある。
「私に沈深なるは淵のごとく、人に接して活発なるは飛鳥のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり」。
《国民の品行を高めるべきである》
国民の見識を高級にしていく必要がある。そのためには、医師の不養生や論語読みの論語知らずでは困る。現状に満足せず、つねに上流と比較してそちらに向かうべきである。
学校の名誉は、研究内容が高級であることと、教え方がうまいことと、先生や学生の品行が高く、議論が賤しくないことによって決まる。規則が厳しいことは自慢にならない。
インドやトルコは、自国の有様に満足しているうちに、自由貿易の効果で衰退したのである。西洋の強さを恐れつつその文明を慕い、内外の有様を比較して努力すべきである。
十三編(明治7〔1874〕年12月出版)
《怨みは社会に害をもたらす》
貪吝≒節倹・経済。奢侈≒人間の美事。誹謗≒弁駁。このほか、驕傲≒勇敢、粗野≒率直、固陋≒実着、浮薄≒穎敏など。場所と強弱と方角により、徳にもなり不徳にもなる。
しかし、怨望だけは、場所と方向にかかわらず全くよくない。他人を羨んで、不幸に陥れて満足する。こういうやり方は、社会の幸福にとって百害あって一利もない。
怨望は、人々の天分の発揮を妨げると生じる。貧富貴賤の格差が原因ではない。人々が納得できる貧富貴賤の格差は、社会を崩壊させるものではない。
天分が発揮できず、人生の禍福はすべて運次第という社会では、怨望が蔓延する。機会平等なき結果不平等が怨望のもとである。
「子曰く、ただ女子と小人とは養い難しと為すなり。これを近づくれば則ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む」。孔子は二千年前の野蛮時代の人。進化史観、存在被拘束性。
御殿女中の出世。臨機応変で主人の寵愛を得る。基準が明確でない出世、すなわち僥倖。僥倖は努力しても真似できないので怨望を生む。
御殿の毒害と世間の毒害の統計を比較すれば、御殿のほうが多いはずである。怨望の代理指標としての毒害。
英米社会と日本社会を比較して、御殿の理念型に近いのはどちらか。英米社会にも悪いところはいろいろあるが、怨望の一事については日本と全く違う。
民選議院や出版自由は、怨望に代えて活動を、嫉妬に代えて競争をもたらす。自力、自業自得の社会になれば怨望はなくなる。
これは政治だけでなく、社会全体に言えることである。人々が互いに交流して自由に話し合えば、怨望嫉妬は消えてなくなる。「人生活発の気力は物に接せざれば生じ難し」。
十四編(明治8〔1875〕年3月出版)
《人生の来し方行く末を点検する》
人生うまくやろうと思っても失敗することは多い。環境に左右されるからである。また、課題の難易と時間の長短を見誤るからである。
これまでやってきた仕事の成否得失について、ときどき自分の胸中で智徳事業の差引総勘定をしてみるとよい。過去十年の損得反省、現状認識、将来計画。
《世話という言葉の意味》
世話という言葉の2つの意味。@保護、A命令(指図)。親子や政府国民のあいだで、保護と指図が両方とも行き届けばうまくいく。
保護と指図に少しでも齟齬があると不都合を生じる。道楽息子のパラサイト(保護>指図)。孝行息子と馬鹿親父(保護<指図)。
田舎の老人(保護<指図、大きにお世話)。貧民救助(保護>指図、大きに御苦労)。cf.イギリス救貧法の歴史。
個人の私徳は、天下の経済に響かないので悪くない。チャリティーはむしろ尊ぶべきである。経済の公論と仁恵の私徳とを区別すべきである。
十五編(明治9〔1876〕年7月出版)
《事物を疑って取捨選択すること》
「信の世界に偽詐多く、疑いの世界に真理多し」。文明の進歩は、事物の機能を詮索して真実を発見することによってもたらされる。
西洋において人々を文明に導く大家の説を見ると、いずれも旧説や旧習に反対や疑問を唱えるものである。人類の進歩は、ただ惑溺を脱し異説争論を立てるにあるのみ。
とはいえ、軽信もよくないが軽疑もよくない。信疑の取捨を可能にするのは学問である。にわかに東洋から西洋に乗り換えたのは、自発的ではなく軽信軽疑の謗りを免れない。
改革者流、開化先生の西洋心酔は、西施の顰みや学者の朝寝に倣うようなものである。西洋文明も完全ではないし、日本文化も全く間違っているわけではない。cf.保守主義。
この混乱のなかで東西の事物を比較し、信疑取捨に責任を負う者は、われわれ学者のほかにはない。「学者勉めざるべからざるなり」。
十六編(明治9〔1876〕年8月出版)
《日常生活のなかで独立を守ること》
独立の二種。@有形の独立(品物についての独立。人に物をもらわないこと)、A無形の独立(精神についての独立。消費文化に支配されないこと)。
《言葉と行動がつりあうようにすべきである》
議論:外物に縁のない内なるもの、自由、無制限。言、志、説。
実業:外物に接して処置を施すこと、不自由、制限。行、功、働き。
→議論と実業を平均させるべきである。
@人に高級な実業を選ばせるのは、高級な議論である。議論を高級にしなければ、実業も高級にはなりえない。
A実業には、難易のほかに有用無用の区別がある。有用な実業を認識するためには議論を明晰にしなくてはいけない。
B場所柄や時節柄を判断して実業を有益なものにするのは、議論である。議論なき実業は、蒸気なき機関、楫なき船である。
C実業なき議論は不平のもと。金を貸さずに返金が遅いと言って怨むようなもの。自分のやれる範囲の仕事を進んですれば、議論と実業がつりあって楽しくなってくるはずである。
人の仕事に不満があったら、自分でやってみるべきである。人の本を批判するなら自分で本を書くべきである。学者を批評するなら自分も学者になるべきである。
十七編(明治9〔1876〕年11月出版)
《人望を得るのはどんな人か》
人望=のれん=信頼。三井・大丸の正札売り。馬琴のベストセラー。人望が生じる理由は、ただその人の活発な才知と正直な心による。
人望には虚名も含まれるが、一斗の米を一斗に計るような正味の栄誉なら問題ないし、大いにこれを求めるべきである。
多くの事物に接し、広く世の人と交際し、能力にふさわしい仕事をすべきである。それが自分のためにも社会のためにもなる。そのためにはどうすべきか。
@自分の考えを他人にわかってもらうためには、言語を流暢活発にすべきである。「円き水晶の玉」ではだめ。
A多くの人と交際するためには、にこにこしていたほうがよい。真心で仲良く、家族のような交際を心がけるべきである。
Bなるべく多くの友人を作るべきである。相手は鬼や蛇ではなく人間なのだから、恐れることなく、心を丸出しにして付き合うべきである。「人にして人を毛嫌いするなかれ」。東亜日報[社説]韓日海底トンネルの公式化提案、問題あり
OCTOBER 23, 2010 02:59
韓国と日本の学者26人で構成された韓日新時代共同研究プロジェクトが22日に発表した報告書は、韓日関係の未来に向けた意味と明らかな限界を示している。両国は、民主主義や市場経済、人権などの価値を共有する北東アジアの主要国であり、両国の協力を越え、グローバルな問題解決のためにも力を合わせなければならない。両国は、未来志向的な協力のために過去と現在の認識を共有しなければならない特殊な関係でもある。さらに、今年が韓日併合100年という歴史的な意味を考えれば、これまでとは違う画期的な歴史認識が加害国である日本から出されなければならない時だ。

しかし、併合に対する同プロジェクトの認識は、今年5月に両国の知識人の共同声明に比べて大きく及ばない。当時、日本の知識人104人は、韓国の知識人109人とともに、「韓国併合は、大韓帝国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして実現された不義不正な行為である」と明示して、併合条約が当初から無効という共同声明を発表し、日本政府にこのような歴史の真実を受け入れるよう求めた。その後、参加する知識人が増え、最近までに日本で約560人、韓国で約590人が参加した。
いっぽう、今回の韓日の学者による報告書は、「日本は、武力で韓国人の反対を押さえ込み、韓国併合を断行した」という言及にとどまった。明白な過去の不法行為を認めず、「過去の重い歴史の事実を直視し、地平線の向こうの明るい未来を開拓しよう」と言うことは、空虚なレトリックに聞こえる。過去の真実を認めず、どのように過去を忘れないと言えるのか。強制併合が、「強迫による不法条約」であることを日本側が認めないのは、まだ心からの国家的反省が不十分だということを意味する。

同プロジェクトが選定した21のアジェンダにも、国民的論議を呼ぶ懸案が含まれている。両国の専門家たちが、海底トンネルの推進を含めたことは、性急であるだけでなく、誤解の素地が大きい。韓日海底トンネルは、日本の軍国主義時代に遡る。日本は1940年、米国の潜水艦などの海上攻撃を受けずに大陸に軍需物資を積み出す「不沈航路」を確保するために、海底トンネル工事を計画した。このような過去を見ず、海底トンネルを美化して、両国首脳への報告書に含めたことは不適切だ。日本側と特定宗教団体の海底トンネル推進ロビーについての風説も広まっている。トンネルが、両国の経済利益のために必要な点があるとしても、国民的論議とコンセンサスの構築が先行しなければならない。

韓日共同研究プロジェクトは、韓日首脳の合意によって発足し、昨年2月から20ヵ月間の議論を経て報告書を作成した。十分な時間があったにもかかわらず、問題の素地が多い提案をしたことは残念だ。両国首脳がこの報告書をもとに「韓日新時代共同宣言」をするなら、大幅な補完と修正、そして国民の合意が必要だ。








第182回『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の新聞批判(10・12・05記)


【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1) ロシアの実情を知らずに戦争報道 (2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘(4) 新聞は日露戦後の総決算せず

(5) 新聞は戦争を勃発させる力もつ

【2】『朝日新聞社史』を読んで

(1)「(池辺)三山、強硬論を唱える」(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

(3) 新聞の売れ行きは飛躍的に増大

【3】米西戦争とアメリカの新聞

【4】むすび 言論人の反省

 NHKテレビ『坂の上の雲』の第2部(第6回日英同盟 第7回子規、逝く 第8回日露開戦 第9回広瀬、死す)が始まった。いよいよ戦闘場面にさしかかる。日露戦争開戦当時、日本の新聞・世論はどうだったのか。

 作者司馬遼太郎は「あとがき」のなかで、「日露戦争前、政府はもっぱら避戦的態度であり、自然、政府系の新聞とされる国民新聞や東京日日新聞は自重論であり、これら数種の新聞は経営の危機が伝えられるほどに人気がなかった。民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。この開戦への世論形成をしたのは朝日新聞などであった。学者もこれに参加した。」(文春文庫第8巻 P303〜304)と書いている。

 自らも新聞記者(1948〜1960)を経験したことのある司馬は、作品の中で随所に内外の新聞記事を引用しながら、書き進めている。ここでは司馬遼太郎の新聞観といったものを見てみたい。(敬称略)

【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1)ロシアの実情を知らずに戦争報道

 まず、日露戦争の開戦時に日本の新聞は何を伝えていたか。1905(明治38)年1月25日付け東京朝日新聞の大見出しに、「突如、露京に革命の烽火揚る」とあるのを槍玉に挙げ、ロシア革命の前兆となる「血の日曜日」の勃発を「突如」というのはありえないとしている。

「朝日」だけでなく、当時の日本の新聞は、戦場以外に海外特派員を配置するほどのゆとりがなかったことを認めながらも、数ヶ月前からロシアで革命の機運が高まっていたのをキャッチできず、「いかに国際感覚に欠けていたかがわかるであろう。」と痛烈に批判している。

「それにしても敵国の状態について不勉強すぎるであろう。そういう無知が、この見出しの感覚にも出ている。」「・・新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてはまったく欠けていたという点で、なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった。」「・・・この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争を戦っていたのである。」(文春文庫第6巻 P203〜205)

(2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

 それに比べて、ルーズベルト米大統領は東京の公使館から日本の新聞論調をまとめた報告を受け、奉天会戦後、日本人が慢心しはじめていることや日本の国力窮乏について「知りすぎるほど知っていた」と書いたあと、新聞の危うさを次のように指摘している。

「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。・・・新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。」(文春文庫第7巻 P218〜219)

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘

 さらに、日露戦争後、ルーズベルトは、「日本の新聞の右翼化」という言葉を使って新聞自体の体質変化を警戒していた。奉天会戦以前の2月6日付けですでに駐伊・アメリカ大使に「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう。」と書き送っていたことを紹介している。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。」と記している。 (文春文庫第7巻 P219)

(4)新聞は日露戦後の総決算せず

 日露戦争では日本、ロシア両軍とも兵士12万人近くがそれぞれ犠牲になった。しかし、日本の新聞は戦後総決算をせず、それが日本軍隊の絶対的優越性という迷信を生んだと司馬は見る。

「(日露)戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。という冷静な分析を一行たりとものせなかった。・・・もし日本の新聞が、日露戦争の後、その総決算をする意味で、「ロシア帝国の敗因」といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずから負けた」ということになるであろう。

 もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本でおこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。」 (文春文庫第6巻 P206)

(5)新聞は戦争を勃発させる力もつ

 秋山真之が滞米中、米西戦争が勃発した。「米西戦争の戦訓は、のちの日露間で行われた海上封鎖と決戦のためにどれほど役に立ったか分からない。・・・日本人がロシアとたたかうためのヒナ型を提供するためにアメリカ人とスペイン人が戦ってくれたようなものであり、その戦訓の取材者として天が秋山真之をキューバにくだしてくれたようなぐあいである。」(文春文庫第2巻 P253)

 しかし、それはそれとして、その米西戦争は米大統領が好まないのに新聞社同士の販売競争のために仕組まれた戦争だったことに触れ、日露戦争でも似たような取り組みをした日本の新聞の実態を浮き彫りにしている。

「良質な新聞は別として、低級な新聞(黄色紙=イエローペーパー)が紙面を挙げて戦争気分をあおった。かれらは『無知で浅薄で景気のいいことが好きなアメリカおやじ』どもの感情に迎合し、迎合することによって新聞を売ろうとした。真之の滞米中におこった米西戦争は、戦争というものの社会科学的必然性はなにもなくて勃発した。アメリカ政府を戦争にひきこんで行ったのはハースト系の新聞とピュリッツア系の新聞であったという点で、世界戦史の珍例とすべきものであった。」(文春文庫第2巻 P230〜231)

【2】『朝日新聞社史 明治編』から

(1)「三山、強硬論を唱える」

 当時、東京、大阪の主な新聞で非戦論を唱えていたのは、東京日日、毎日(東京横浜毎日を改題)、萬朝報。主戦論をとったのは大阪・東京の両『朝日』、時事新報、大阪毎日だった。

 このうち、『東朝』で主戦論の急先鋒は池辺三山だった。社史に「三山、強硬論を唱える」の項があり、三山が社説(明治36年4月30日)で、クリミヤ戦争を例にとり、「ロシアの横車には兵力に訴えることもできるぞと、という強硬論をはいた。」とし、『三山日記』には元老山縣を訪ねて意見を聞いたところ、山縣が「積極論を唱えた」とあり、新聞記者が政治家を動かす場面が出てくる。(432ページ)

 『大朝』では内藤湖南、西村天囚、鳥居素川が開戦前から戦争中を通じて主戦論を唱え、内藤湖南は社説「和戦の決と其特質」の最終回で植民地・新市場の必要性を説き、大陸にむかって開戦に踏み切るべきだと強調している。

「我邦は実に人口の繁殖の為に土地の必要あり。而して工業生産物の排泄の為に新市場の必要あり。・・・この大なる要求を満足せしめ、永く他国の圧迫より脱するは戦争の結末による外なし。」(435ページ)

(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

 1905(明治38)年9月1日の大阪朝日新聞には、「白骨の涙」という題の絵が載っている。その絵解きとして、「29日の講和談判会見に於いて成立したる条件は一切日本の譲歩のみ・・・。という書き出しで始まる全文を黒枠で囲み、社説は『屈辱的な条件』としてその破棄を要求した。『白骨の涙』の絵はサレコウベが泣き、軍刀は無残に折れている。激越な内容の紙面である。」という説明文がついている。(480ページ)

 同じ日、池辺三山は社説「講和談判の成立」で、「講和条件中の満韓処分問題のごときは、すでに日本が実力によって解決していたものであり、のこるは 償金、割地、露艦交付、海軍力制限の4条件のみであるのに、当局はこの主張をことごとく放棄した。」として、日本政府は国民を侮辱し、国事を誤るものだと、激しく攻撃した。

 その上、『東朝』は講和条件反対の投書を募集する社告を出した。投書の数はぞくぞく増え、9月4日には社説を止めて社説の載る面1面を投書に当てた。内容は小村全権の責任をなじるもの、ロシアの保護国になれと皮肉るもの、桂内閣を大露探(ロシアの大スパイ)ときめつけるもの、狂歌、漢詩に託して痛罵するものなどだった。(479ページ)
 この記事の4日後に「日比谷、焼き打ち事件」が起こった。司馬はなぜか「日比谷焼き打ち事件」についてはあまり触れていない。
 
(3)新聞の売れ行きは飛躍的に増大

 経営が傾きかけていた新聞社にとって日露戦争は救いの神だった。

「日露戦争が始まると新聞の売れ行きは増大した。1904(明治37)年上半期(4〜9)の1日の平均発行部数は『大阪朝日』が2万195部増え15万2403部に、『東京朝日』が2万195部増え8万7266部になった。」(487ページ)とある。

 号外も驚くほど多かった。大本営、陸・海軍、外務省の発表ものを中心に、1日5回発行された日もある。「毎日」は日露戦争中、号外を498回、1ヶ月平均22回発行したという記録がある。


【3】米西戦争とアメリカの新聞

 ピュリッツアと米西戦争について、ピュリッツアの評伝(『マスメディアの先駆者』講談社)の著者香内三郎は、概ね次のように記している。

「マッキンレー大統領は気乗り薄だったようだし、スペインもアメリカの要求を全部呑んだのに、ピュリッツアも含めた『新聞』が戦争を起こしたのだ、とまで言われている。ピュリッツアが後年、教育に力を入れ、コロンビア大学に『スクール・オブ・ジャーナリズム』を作り、『ピュリッツア賞』を設けたのは、その反省であり、懺悔のしるしだと言われている。

「『ジャーナル』と『ワールド』を先頭にするジンゴイズム宣伝、好戦熱病の扇動がなければ、あるいは回避できたのではないか。」

「・・・諸新聞の、虐げられた『キューバ』を解放せよ、という叫びはまことにものすごいものがあった。スペインを『悪玉』にしたて、キューバ人民を『善玉』にすえ、あることないことととりまぜてエロ、暴行、サスペンスを好きなだけ盛り込めるこのテーマは、部数競争に血道をあげる両紙にとって、まことに格好のテーマであったのだ。」(96ページ)

「アメリカ・ジャーナリズムの名誉のために一言しておけば、1897年にも、戦争反対を叫ぶ新聞はあった。『ヘラルド』『イーブニング・ポスト』『トリビューン』『タイムズ』。ある計算によると、ニューヨークの好戦紙全部の総計は、およそ156万部、反戦紙の部数は以上の総計で約22万5千部だった。」

【4】むすび

 ジャーナリズムの落とし穴に、センセーショナリズムとスキャンダリズムがあることは歴史が教えている。米西戦争と日露戦争の報道もその一つである。軍隊での経験もある司馬遼太郎は、戦争を勃発させる力をもつ新聞に脅威を感じ、『坂の上の雲』の新聞批判を通じて、太平洋戦争に突き進んだ日本の新聞のあり方に猛省を促したかったのではないか。

 尖閣問題やビデオ流出事件、さらに北朝鮮の延坪島砲撃、米韓・米日の軍事演習などの動きを見るとき、太平洋戦争で演じた新聞の轍を2度と踏まないように、日々、自省自戒のもとで報道をしてほしい。ここで太平洋戦争後明らかにされた言論人の反省を改めて噛み締めたい。#

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(言論人の反省)

高杉孝二郎(毎日新聞西部本社編集局長)
 毎日新聞の社史によると、高杉は「その日まで戦争を謳歌し,煽動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民にお詫びしなければならない」として、敗戦の翌日から8月20日まで5日間、終戦の詔書と公的機関の発表・事実経過だけを掲載し、2ページしかなかった紙面の半分以上を白紙で発行した日(8・17)もあった。

 高杉は白紙で発行することによって、社長に新聞の廃刊を進言したという。この白紙事件に対して、1カ月後、毎日新聞会長の高石真五郎は「西部本社の取った態度については小生、ただ呆然として解するを得ず」と怒りを表している。高杉は、その前の8月29日、退社した。 
緒方竹虎(朝日新聞社主筆)
 緒方は伝記『緒方竹虎』に収録された遺稿の中で次のように書き遺している。             
「〜日独伊三国同盟が調印された時、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったろうと思う。然し如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか」
美土路昌一(朝日新聞社長)
 美土路は『回顧談』の中でマスコミ人の一人として何も出来なかった自分を責めた上、次のように反省している。
「〜全新聞記者が平時において大声叱呼した言論自由の峰火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼らを誤らしめたその無気力、生きんがための売節の罪を見逃してはならぬ、・・・言論死して国遂に滅ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である。」
福岡s二(読売報知新聞社会部記者)
 福岡は、真珠湾攻撃の朝、宿直勤務で、大本営報道部から呼び出され、三宅坂の参謀本部へ駆け付けた一人。
「思想的に締め付けられ、批判記事を書けば経営が脅かされる時代だった。新聞だけが責めを負うべきでない。世の中全体が戦争遂行に追従していったのだ。」
宮本太郎(読売報知社九州総局長)
 宮本は、紙面で沖縄決戦での特攻隊の任務の重要性を説いた。
「上からの圧力で筆を曲げると言うよりも、目先の記者活動に自分を埋没させてしまい、時流に流されていった。」
 戦後、自分の書いた記事を悔やみ、新聞社の戦争責任をめぐり発生した「読売争議」に身を投じ、その後退社した。
(福岡s二記者、宮本太郎局長の話はともに『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』読売新聞社編)
柳沢恭雄(日本放送協会報道部副部長)
 柳沢恭雄はラジオニュースの責任者の一人。玉音放送の前夜、内幸町放送会館で反乱軍将校に拳銃を突き付けられ、決起の放送を強要されたが、これを拒否した。
「私の放送人としての仕事は戦争とともにあった。大本営発表とともにあったともいえる。一生懸命やればやるほど間違いを犯す地位で仕事をやってきた。この責任は永久に残る。わが生涯の戦後は終わる事はない。」(『20世紀放送史』NHK編)

第101回 59回目の8月15日を前に(2004・8・9記)

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(参照)

【日比谷焼打事件】

1905国民大会がきっか(明治38)年9月5日、日比谷公園で行われた日露講話条約反対のけになって発生した大暴動。交番や政府系新聞社などを襲う。翌日続き、鎮圧に限界も例が公布される。

【センセーショナリズム】
人の耳目を引くことを第1とする立場。扇情主義。

【ジンゴイズム】 
好戦的な愛国主義

【米西戦争】
1898年アメリカとスペインとの間に行われた戦争。キューバの反乱とアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件とを契機として勃発。この結果、アメリカはキューバを保護国とし、プエルトリコ、・グアム島を手に入れ、フィリピン諸島を獲得、ドイツがスペインから南洋群島を購入した。

(以上、いずれも広辞苑から)











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